「エクトル・ベルリオーズ」の版間の差分

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Qray (会話 | 投稿記録)
m 顰蹙を買われ→買い、と修正。日本語としての誤りを正した。
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[[1828年]]の[[3月]]、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回の[[パリ音楽院管弦楽団]]定期演奏会で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]を、また同年に[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番『運命』]]を聴いて、大きな啓示を受ける<ref>[http://hector.ucdavis.edu/SdC/Programs/Pr001.htm パリ音楽院管弦楽団1828年演奏会記録]</ref>。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。
 
[[1829年]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』([[ジェラル・ド・ネドヴァル]]の仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『[[クレオパトラの死 (カンタータ)|クレオパトラの死]]』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。
 
[[1830年]]2月に『[[幻想交響曲]]』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。[[12月5日]]に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。