「梁女瑩」の版間の差分

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{{基礎情報 君主の正配
| 人名 = 梁皇后
| 各国語表記 =
| 正配称号 = [[後漢]]の皇后
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[147年]] - [[160年]]
| 戴冠日 =
| 別称号 =
| 全名 = 梁女瑩
| 別称 = 懿献皇后
| 出生日 =
| 生地 =
| 死亡日 = [[160年]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 結婚 =
| 配偶者1 = [[桓帝 (漢)|桓帝]]
| 子女 =
| 氏族 = <!--出身氏族-->
| 家名 =
| 父親 = 梁商
| 母親 =
| 宗教 =
| サイン =
| 空欄表題1 = 兄弟
| 空欄記載1 = [[梁冀]]
| 空欄表題2 = 姉妹
| 空欄記載2 = [[梁ナン|梁妠]](順烈皇后)
}}
'''梁 女瑩'''(りょう じょえい、? - [[160年]])は、[[後漢]]の[[桓帝 (漢)|桓帝]]の1番目の皇后。義理の姑であった順烈皇后[[梁ナン|梁妠]]([[順帝 (漢)|順帝]]の皇后)の妹、また[[梁冀]]の妹である。
 
== 生涯 ==
[[安定郡]][[烏氏県]]の人。初め、蠡吾侯の劉志(のちの桓帝)と婚約した。[[本初]]元年(146年)、梁冀は[[質帝]]を毒殺した後、権勢保持のため桓帝を擁立した。[[建和 (漢)|建和]]元年(147([[147]])、女瑩は皇后に立てられた。
 
当初、女瑩は桓帝の寵愛を一身に受けた。しかし女瑩は尊貴をたのんで驕慢であり、奢侈濫費を重ねた上、梁冀の専横が続いたため、桓帝は女瑩をも恐れはばかることになった。梁太后(順烈皇后)が崩御した後、桓帝は他の妃嬪を寵愛するようになった。女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪をみな死に追いやった。結局、女瑩は桓帝の信頼も寵愛も失った。[[延熹]]3年(160([[160]])、女瑩は憂憤のうちに崩じた。「懿献」と[[諡]]され、懿陵に葬られた。
 
梁冀が誅殺された後、懿陵も[[貴人 (後宮)|貴人]]冢と改められた。
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== 梁女瑩を主題にした作品 ==
* [[楊慎]]の『漢雜事秘辛』は、梁女瑩の婚前裸体検査を題材とした。
 
{{Template:後漢の皇后}}
 
{{デフォルトソート:りよう しよえい}}