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[[1911年]][[7月9日]]には士林、北投でも水道が完成<ref>{{Zh-tw icon}}[http://talk.ltn.com.tw/article/breakingnews/2126079 台灣回憶探險團》【歷史的今天】1911.7.9 士林北投水道舉行竣工式]2017-07-09,[[自由時報]]</ref>、[[1912年]]には第28回帝国議会で総督府が要請していた総額263万円の[[旧台南水道|台南水道]]の予算案が通過した。翌年に実地調査を開始し。予算が433万円に超過したり、[[第一次世界大戦]]の影響などで予定していた4年の工期が遅れたものの<ref name="水利署" />{{rp|page=49}}、7年以上の工期を経て[[1922年]](大正11年)に10万人の供給能力をもつ水道インフラが完成している。台南水道は戦後に市内で大型の施設が稼働し主要な役割を譲ったものの、[[1982年]]まで稼働し続けた<ref>[http://japan.cna.com.tw/news/atra/201409060003.aspx 日本統治時代「台南水道」の建築、台南市に寄贈/台湾]2014-09-06,[[フォーカス台湾]]</ref>。こちらも[[2005年]]に国定古蹟となっている<ref>{{Zh-tw icon}}[https://nchdb.boch.gov.tw/assets/overview/monument/20050929000001 原臺南水道] 文化部文化資産局 国家文化資産網</ref>。
 
台南水道事業では上司として'''[[八田與一]]'''と出会い、八田は浜野から多くのことを学んだ<ref name="ctwwa" />{{rp|page=79}}。その後八田は同じ台南で[[嘉南大シュウ|嘉南大圳]]と[[烏山頭水庫]]の大事業を完成させている。
 
[[1919年]]、浜野は健康状態の悪化を理由に総督府の職務を辞し、帰国することを決意。また、恩師バートンの功績を世に留めるべくその銅像を建てようと募金に奔走し、台湾総督[[明石元二郎]]にも台北水道水源地内の用地確保を申請している<ref name="ctwwa" />{{rp|page=79}}。[[3月30日]]に無事バートン像の除幕式を開くことができた<ref name="ctwwa" />{{rp|page=79}}。4月に帰国のために台湾を去る際には官民合わせて150人以上が集い送別会を開いている<ref name="水利署" />{{rp|page=50}}。