「浅草公園六区」の版間の差分

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[[1883年]](明治16年)9月浅草寺西側の日除地(通称、浅草田圃)の一部を掘って池(大池、後に通称[[ひょうたん池|瓢箪池]])とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成、浅草寺裏手の通称奥山地区から[[見せ物小屋]]等が移転し歓楽街を形成した。1884年(明治17年)1月公園地は[[東京府]]によって一区から六区までに区画され(同年9月七区追加、1934年公園地から除外)、その歓楽街は「浅草公園地第六区」となった<ref>一区は浅草寺本堂周辺、二区は仲見世、三区は伝法院周辺、四区は大池と瓢箪池を含む周辺(現;ウインズ浅草、浅草木馬館)、五区は奥山地区(現;浅草花やしき付近)、六区は埋立地に出来た興業街(現;浅草演芸ホール一帯)、七区は旧浅草馬道一帯(現;仲見世の裏側、浅草公会堂)。</ref>。