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[[File:Kariya Upper Secondary School.jpg|thumb|160px|right|高校サッカーの古豪である刈谷高校]]
 
[[1921年]](大正10年)、開校3年目の刈谷高校は当時としては珍しく<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁">愛知県サッカー協会 (2002)、104頁</ref> サッカーを校技と定めた<ref name="赤ダスキの歩み4頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、4頁</ref><ref name="野球部50年史3頁">刈谷高校野球部OB会 (1999)、3頁</ref>。右肩から左腰にかけて赤いラインが入った白色のユニフォーム(赤だすき)でよく知られている<ref group="注釈">アルゼンチンの[[CAリーベル・プレート]]のユニフォームとよく似ているが、赤いラインの向きが異なる。</ref><ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/>。当初は上下白色の体操服だったが、赤いたすきをかけて必勝を期したことが由来である<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/>。たすきは試合中に相手選手に引っ張られ、また規則に違反していたため、やがてユニフォームに縫い付けられて現在のようなデザインとなった<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/><ref name="赤ダスキの歩み30頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、30頁</ref>。当時から愛知県は野球王国であり、サッカーを校技とするまでには教員の間でも紆余曲折があったという<ref name="赤ダスキの歩み10頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、10頁</ref>。刈谷中学出身の[[河本春男]](後に[[ユーハイム]]会長)は[[東京高等師範学校]]([[筑波大学]]の前身)卒業後に神戸一中(現[[兵庫県立神戸高等学校|兵庫県立神戸高校]])の監督に就任し、7年間で4回の全国優勝を果たした<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/>。刈谷中学から[[早稲田大学]]に進学した[[高橋英辰]]は母校で指揮を執った後、1950-1960年代には2度に渡って[[サッカー日本代表|日本代表]]監督を務めた<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/>。[[1926年]](大正15年)には八高(現[[名古屋大学]])主催全国中等学校蹴球大会に出場して優勝した<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、234-235頁</ref>。[[1932年]](昭和7年)に大日本蹴球教会が発行した蹴球名鑑には愛知県内の5チームの一つとして刈谷中学が掲載され<ref group="注釈">他の4チームは[[名古屋高等工業学校]](1951年廃止)、[[名古屋高等商業学校]](1951年廃止)、愛知第一師範学校(現[[愛知教育大学]])、熱田中学(現[[愛知県立熱田高等学校|愛知県立熱田高校]])</ref><ref name="愛知県サッカー協会75年史72頁">愛知県サッカー協会 (2002)、72頁</ref>、戦前にも豊橋中学(現[[愛知県立時習館高等学校|愛知県立時習館高校]])、明倫中学(現[[愛知県立明和高等学校|愛知県立明和高校]]、愛知商業(現[[愛知県立愛知商業高等学校|愛知県立愛知商業高校]])などとともに名門校のひとつに数えられていた<ref name="高体連五十年誌227-228頁">愛知県高等学校体育連盟 (1998)、227-228頁</ref>。[[1935年]](昭和10年)の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国中等学サッカー蹴球選手権大会]]では愛知県立第八中学校(刈谷中学)として全国大会に初出場し、ベスト4となった<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁"/>。
 
戦後には刈谷中学が群を抜いて台頭し、昭和20年代に全国トップレベルだった愛知県の高校サッカーを牽引した<ref name="高体連五十年誌227-228頁"/>。[[1949年]](昭和24年)には[[国民体育大会サッカー競技]]少年男子の部に初出場し、翌年には3位となった<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁"/>。[[1954年]](昭和29年)大会と[[1955年]](昭和30年)大会で2連覇し、[[1957年]](昭和32年)大会でも3位となった<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁"/><ref name="高体連五十年誌227-228頁"/><ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁"/>。選手権には1949年大会から[[1954年]](昭和29年)大会まで6年連続で選手権への出場を果たし、1949年大会と[[1952年]](昭和27年)大会でもベスト4となっている<ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁"/><ref name="赤ダスキの歩み"/>。当時の選手権への出場枠は愛知県と静岡県で一枠であり、やがて全国大会で何度も優勝する[[静岡県立藤枝東高等学校|静岡県立藤枝東高校]]は何度も刈谷高校に苦杯を嘗めていたが、[[1955年]](昭和30年)に刈谷高校を破って選手権初出場を決めている<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/><ref name="赤ダスキの歩み96頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、96頁</ref>。[[1962年]](昭和37年)の選手権第40回大会では10回以上出場した高校を表彰しており、[[明星中学校・高等学校|明星高校]](大阪/私立)、[[兵庫県立神戸高等学校|神戸高校]](兵庫神戸一中)、[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]](広島一中)、刈谷高校(愛知八中)、[[大阪府立三国丘高等学校|三国丘高校]](大阪二中)の5校が表彰された<ref name="赤ダスキの歩み110頁">愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、110頁</ref>。[[1965年]](昭和40年)大会から[[1967年]](昭和42年)大会でも3年連続出場を果たし、1967年大会では準優勝した<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁"/><ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁"/>。昭和30年代には刈谷高校、[[愛知県立豊田西高等学校|愛知県立豊田西高校]]、熱田高校が愛知県の3強であり、やがて群雄割拠の様相を呈したが、昭和40年代後半にも公立の刈谷高校と熱田高校、私立の[[岡崎城西高等学校|岡崎城西高校]]、中京高校(現[[中京大学附属中京高等学校|中京大中京高校]])、[[愛知中学校・高等学校|愛知高校]]の5校が他校を先導した<ref name="高体連五十年誌227-228頁"/>。昭和50年代には中京高校を筆頭とする私立高校が完全に優位に立ち、刈谷高校は往時の勢いをなくした<ref name="高体連五十年誌227-228頁"/>。刈谷高校を含む公立高校の衰退には、1973年から1988年まで導入された[[学校群制度]]の影響も指摘されている<ref name="高体連五十年誌231-233頁">愛知県高等学校体育連盟 (1998)、231-233頁</ref>。
 
刈谷高校は[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校サッカー選手権]]に愛知県勢最多の19回出場している<ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁">愛知県サッカー協会 (2002)、158-159頁</ref><ref name="赤ダスキの歩み">『赤ダスキの歩み 刈谷高校サッカー部70年史』愛知県立刈谷高校サッカー部OB会、1989年</ref>。[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|全国高校総体サッカー競技]]への出場回数は中京大中京高校の15回に次いで愛知県2位タイの7回([[東邦高校]]とタイ)であり、初出場した1967年大会の準優勝が最高成績である<ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁"/><ref name="赤ダスキの歩み"/>。[[国民体育大会サッカー競技]]少年男子の部では[[1954年]](昭和29年)大会と[[1955年]](昭和30年)大会での2連覇、[[1950年]](昭和25年)大会と[[1957年]](昭和32年)大会での3位が特筆される<ref name="赤ダスキの歩み234-235頁"/><ref name="高体連五十年誌227-228頁"/><ref name="愛知県サッカー協会75年史158-159頁"/>。[[1970年]](昭和45年)以降の同競技には単一高校チームではなく都道府県選抜チームが出場しており、同大会で全国連覇を果たしたのは刈谷高校のみである<ref name="愛知県サッカー協会75年史104-105頁"/>。