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2代伯の死後は、息子の{{仮リンク|エドワード・スタンリー (第3代ダービー伯爵)|label=エドワード|en|Edward Stanley, 3rd Earl of Derby}}<small>(1508頃-1572)</small>が3代伯となった。彼は16世紀半ばの宗教改革期にプロテスタント改革派と距離を取ることでスタンリー家の安泰を図った。[[1553年]]に挙行されたカトリックの[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]の[[戴冠式]]でも[[大家令 (イングランド)|大家令]]を務めており、[[チェシャー]]や[[ランカシャー]]の統監にもなった{{sfn|バグリー|1993| p=99-102}}。
 
4代伯{{仮リンク|ヘンリー・スタンリー (第4代ダービー伯爵)|label=ヘンリー|en|Henry Stanley, 4th Earl of Derby}}<small>(1531 - 1593)</small>は3代伯の息子で、{{仮リンク|マーガレット・クリフォード (ダービー伯爵夫人)|label=マーガレット・クリフォード|en|Margaret Clifford, Countess of Derby}}と結婚した。彼女はヘンリー7世の娘[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]の孫であり、以後直系子孫である10代伯[[ジェームズ・スタンリー (第10代ダービー伯爵)|ジェームズ]]<small>(1664-1736)</small>までのスタンリー家の成員はイングランドの王位継承権を持つことになった{{sfn|バグリー|1993| p=114-116}}。ただし結婚生活は不幸で、マーガレットは浪費に走ったことなどが原因で別居、わずかな生活費しか与えられず貧困に苦しみ、宮廷で[[エリザベス1世]]と親交を結んだが、やがて宮廷から遠ざかり不自由な生活を強いられたまま不幸な一生を送った{{sfn|バグリー|1993| p=116-120}}。
 
5代伯[[ファーディナンド・スタンリー (第5代ダービー伯爵)|ファーディナンド]]<small>(1559-1594)</small>は4代伯とマーガレットの長男で、[[1593年]]に襲爵したが翌[[1594年]]に死去した。彼は当時イングランド王位継承順位が母に次ぐ2位で、死の状況も不可解なものであったため、[[イエズス会]]士によって毒殺されたのだといわれた。彼には女子しかいなかったため、ダービー伯爵位は弟の[[ウィリアム・スタンリー (第6代ダービー伯爵)|ウィリアム]]<small>(1561-1642)</small>が継承した。一方ストレンジ男爵位は女子も継承できるがその場合の優先順位が存在しないため、保持者不在となった<ref name="CP ED1456"/><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1380.htm#i13792|title=Ferdinando Stanley, 5th Earl of Derby|accessdate= 2016-7-3 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
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[[File:7thEarlOfDerby.jpg|left|thumb|第7代ダービー伯爵[[ジェームズ・スタンリー (第7代ダービー伯爵)|ジェームズ・スタンリー]]]]
[[ジェームズ・スタンリー (第7代ダービー伯爵)|7代伯ジェームズ]]<small>(1607-1651)</small>は大ダービー伯({{lang|en|Great Earl of Derby}})とも呼ばれる。彼は6代伯の長男で、[[1628年]]にストレンジ卿として貴族院に招集された。これは父親がこの称号も継承していると思われていたためであったが、上記の通りこれは誤りであった。結果、貴族院は[[1299年]]叙位のストレンジ男爵位とは別に、1628年に新しく叙位されたもう一つの{{仮リンク|ストレンジ男爵|label=ストレンジ男爵位|en|Baron Strange#Barons Strange, Fourth Creation (1628)}}があることにすると決定した({{仮リンク|[[錯によって創設された男爵位|en|Baronies created by error}}]])<ref name="CP ED1456"/><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1389.htm#i13885|title=James Stanley, 7th Earl of Derby|accessdate= 2016-7-3 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。7代伯は[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])において一貫して[[騎士党|王党派]]に立ち、領有していた[[マン島]]を王党派の拠点としたが、[[1651年]]の[[ウスターの戦い]]で[[円頂党|議会派]]の[[オリバー・クロムウェル]]に敗れて捕らえられ、[[ボルトン]]で処刑された{{sfn|バグリー|1993| p=155-186}}。マン島に残っていた妻[[シャーロット・スタンリー (ダービー伯爵夫人)|シャーロット]]も議会派に明け渡し、以後スタンリー家は[[イングランド共和国]]で貧困に苦しみながら逼塞せざるを得なくなった{{sfn|バグリー|1993| p=186-188,190}}。
 
7代伯とシャーロットの長男{{仮リンク|チャールズ・スタンリー (第8代ダービー伯爵)|label=チャールズ・スタンリー|en|Charles Stanley, 8th Earl of Derby}}<small>(1628-1672)</small>が8代伯になったが、両親の許可を得ない結婚と財産確保およびノーズリーへの帰還のため共和国と交渉・承認を取り付けたことが王党派の両親の怒りを買い、父から一時廃嫡されたばかりか(後に処刑寸前の父と和解)、母とも険悪な関係になり、ノーズリーの屋敷で妻ヘレナと母との諍いが絶えなかった。8代伯は[[1659年]]に[[ジョージ・ブース]]の王党派の反乱に加わり共和国に投獄されるが翌[[1660年]]に釈放、[[イングランド王政復古|王政復古]]を歓迎し内戦で失った土地の回復などを期待した。ところが[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は補償を求める人々が社会混乱を招くことを恐れたため、所領回復は実現せず父を処刑した関係者も処罰されず、不満を抱えたまま8代伯はチェシャーとランカシャーの統監として秩序回復に奔走したが、過労が原因で[[1672年]]に死去した{{sfn|バグリー|1993| p=188-209}}。