「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の版間の差分

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一方、黒人による反人種差別運動の一部勢力は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、[[1968年]][[4月4日]]のキング牧師の暗殺による指導者の不在、そしてベトナム戦争下で混乱する国内情勢の影響を受けて、非暴力主義を貫いたキング牧師が代表する平和的・合法的な反差別運動から、暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない過激な運動(1965年に暗殺された[[マルコムX]]の影響が強いとされる)へと変化していく。
 
キング牧師の暗殺直後には、[[ロサンゼルス]]や[[セントルイス]]など大都市圏を含む全米125の都市でいっせい一斉に暴動が発生した。これに対して[[ジェームス・ブラウン]]などの多くの黒人スターや公民権運動の指導者らは暴動を鎮静化させるべく動いたものの、これに対して[[トリニダード・トバゴ]]生まれの[[ストークリー・カーマイケル]]率いる急進派の[[学生非暴力調整委員会]](SNCC)や、[[冷戦]]下においてアメリカと思想的に敵対していた[[共産主義]]や[[毛沢東主義]]などの影響を受け、都市部の[[ゲットー]]における自衛闘争の開始を主張した[[ブラックパンサー党]]、黒人による独立国の樹立を目指した[[新アフリカ共和国]](Republic of New Africa)といった過激派の政党が現れ闘争を継続した。
 
ブラックパンサー党の党員数は1968年には5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行されるなど、一部の黒人からの熱狂的な支持を受けたものの、メンバーが複数の警官射殺事件を起こした上に、政府機関のビル爆破計画の発覚や共産主義との結びつき、[[リチャード・ニクソン]]大統領の暗殺を示唆するなどの過激な手法、主張が継続的かつ広範な支持を受けることはなく、ベトナム戦争が終結した[[1970年代]]中頃になって運動は沈静化した。