「コートニー・ホイットニー」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[File:IncheonLandingMcArthur.jpg|thumb|240px|[[仁川上陸作戦]]を指揮するマッカーサー(中央)とホイットニー(左)]]
[[ワシントンD.C.]]に生まれ、[[1917年]]アメリカ陸軍に入隊。駐軍中にコロンビア・ナショナル・ロー・スクール(現・[[ジョージ・ワシントン大学]])の夜間部に通い[[博士]]([[Juris Doctor]])を取得。1927年に除隊となり、その後1940年まで[[マニラ]]で法律事務所を開き、同時に[[鉱山]]などの事業活動を営む。
 
1940年に陸軍に復帰。[[日本軍]]による[[フィリピン]]全土の掌握に対し、[[ダグラス・マッカーサー]]の指揮下、[[オーストラリア]]の基地からフィリピンの諜報活動を行ない対日ゲリラ活動を指揮して奪回作戦に従事。1944年に前線に復帰し、マッカーサーと共に[[レイテ湾]]に上陸した<ref>{{cite journal|author=Dunn, William J. |title=Pacific Microphone |url=https://books.google.com/books?id=THtnjWqdHssC&pg=PA8 |publisher=Texas A&M University Press |accessdate=27 September 2014}}</ref>。マッカーサーの伝記を執筆したウィリアム・マンチェスターによると、この際に「マニラの超保守弁護士」のホイットニーはマッカーサーの参謀に選ばれ、フィリピンの民政責任者に任命されたという<ref name="manchester">Manchester W. ''American Caesar''. 1978. pp 378-379.</ref>。また、マンチェスターによると、ホイットニーは資産家以外の全てのフィリピン人を見下し、「左翼ゲリラを支援する恐れがある」として南西太平洋における[[Office of Strategic Services|戦略諜報局]]の活動を禁止したという<ref name="manchester"/>。