「藤原宇合」の版間の差分

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[[神亀]]元年([[724年]])3月に海道の[[蝦夷]]が反乱を起こして、陸奥大掾・[[佐伯児屋麻呂]]を殺害する<ref>『続日本紀』神亀元年3月25日条</ref>。そのため、宇合は[[式部省|式部卿]]の官職にあったが、4月に持節大将軍に任命され反乱を鎮圧するために遠征し、11月に帰還<ref>『続日本紀』神亀元年11月29日条</ref>。この功により翌神亀2年([[725年]])正月に[[従三位]]・[[勲等|勲二等]]の叙位・[[叙勲]]を受け、公卿に列する。
 
その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年([[726年]])[[造宮省|知造難波宮事]]に任ぜられ、後期[[難波宮]]造営の責任者を兼ねる。神亀6年([[729年]])の[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]に際しては、[[長屋王]]の謀反に関して密告が行われると、直ちに宇合は[[近衛兵|六衛府]]の兵士を率いて長屋王邸を包囲する等、軍事面で主要な役割を果たした<ref>『続日本紀』天平元年2月10日条</ref>。なお、変での活躍にも拘わらず、既に[[藤原氏]]から2名([[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]])の議政官を輩出していた事もあり、この時点での宇合の[[参議]]昇進は見送られている。
 
[[天平]]3年([[731年]])8月に諸官人の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟・[[藤原麻呂|麻呂]]と共に参議に昇進。藤原四兄弟が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に畿内に惣管、[[五畿七道|諸道]]に[[鎮撫使]]が設置されると、畿内副惣管に任ぜられる(畿内大惣管は[[新田部親王]])。天平4年([[732年]])、地方軍備体制の整備を行うために節度使が置かれると、宇合は西海道[[節度使]]に任ぜられ、九州に赴任する。赴任にあたって宇合が作成した[[漢詩]]が『[[懐風藻]]』にあり<ref>『懐風藻』93</ref>、[[高橋虫麻呂]]の見送る和歌が『[[万葉集]]』に残る。九州では軍事行動マニュアルとして「式」を整備する。約50年後の[[宝亀]]11年([[780年]])になっても[[大宰府]]に対して、宇合の式に基づいて警固を行うように[[勅令]]が出ており<ref>『続日本紀』宝亀11年7月15日条</ref>、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されていた様子が窺われる<ref>土佐[2012: 4]</ref>。天平6年([[734年]])[[正三位]]に至る。