「新田部親王」の版間の差分

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[[養老]]4年([[720年]])[[右大臣]]・[[藤原不比等]]が[[崩御#薨御|薨御]]すると、新田部親王は知五衛及授刀舎人事に任命され、[[朝廷]]直轄の軍事力([[五衛府]]・[[近衛兵#令外官|授刀舎人寮]])の統括者となる<ref>このうち授刀舎人寮は、[[神亀]]5年([[728年]])に[[近衛兵#令外官|中衛府]]として拡大改組され、[[藤原房前]]が中衛大将に任じられた。</ref>。このとき同時に[[知太政官事]]に就任して[[太政官]]の首班に立った舎人親王、翌養老5年([[721年]])に[[右大臣]]に任ぜられた[[長屋王]]とともに[[皇親政治|皇親政権]]を構成した。
 
[[神亀]]元年([[724年]])聖武天皇の[[即位]]に伴って[[一品親王|一品]]に昇叙される。なお、『続日本紀』神亀5年([[728年]])7月21日条には「三品大将軍新田部親王に勅して明一品を授く」とあるが、このときすでに新田部は一品であり、「明一品」は大宝令施行とともに廃止された[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|冠位四十八階]]における[[皇親]]の最高位である。この記事の意味は判然としないが、新田部がこれまでに「大将軍」の称号を有していたことがわかる。神亀6年([[729年]])に発生した[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]では、[[近衛兵#六衛府|六衛府]]の軍隊が屋敷を包囲するなか、舎人親王らとともに派遣されてその罪の糾問に当たっている<ref>『続日本紀』神亀6年2月10日条</ref>。[[天平]]3年([[731年]])[[畿内]]に[[惣管]]、諸道に[[鎮撫使]]が設置された際には、大惣管に任じられた。
 
天平7年([[735年]])9月30日[[崩御#薨去|薨去]]。最終官位は大将軍一品。葬儀に際して、ともに皇親政権を支えた舎人親王が派遣されて聖武天皇の弔意が伝えられた<ref>『続日本紀』天平7年9月30日条</ref>。なお、約1ヶ月半後には舎人親王も後を追うように薨去している<ref>『続日本紀』天平7年11月14日条</ref>。