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新編武蔵風土記稿 八幡山町/児玉町
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== 歴史 ==
[[室町時代]]の[[長禄]]元年([[1457年]])、[[上杉持朝]]の家臣・[[太田道灌]]が[[江戸城]](千代田城)と[[川越城]](河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。[[古河公方]]に対する[[扇谷上杉家]]の防衛線であった。後に[[豊島泰経]]が道灌に対抗するために[[練馬城]]を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『[[太田道灌状]]』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って[[寛永]]16年([[1639年]])に[[川越藩]]主になった[[松平信綱]]と嫡男の[[松平輝綱]]が、中山道の[[脇往還]]としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「'''川越道中'''」{{efn|name=上板橋村|『[[新編武蔵風土記稿]]』の[[上板橋村]]に、「当所は川越道中の馬次」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 上板橋村}}。}}「'''川越往還'''」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは[[明治]]に入ってからである<ref>{{cite web|url=http://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/kanko/rekishi/kawagoeKaido.html|title=川越街道|website=三芳町ホームページ|publisher=三芳町|accessdate=2019-9-3}}</ref>{{efn|『新編武蔵風土記稿』、内務省地理局、1884年、の下白子村には、「河越街道」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下白子村}}。}}。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、[[川越城]]西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、[[埼玉県道109号新座和光線]])。街道には、上板橋{{efn|name=上板橋村}}、下練馬{{efn|『新編武蔵風土記稿』の[[下練馬村]]に、「当所は河越道中の馬次」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下練馬村}}。}}、白子{{efn|『新編武蔵風土記稿』の下白子村に、「東は白子の駅家あり」「[[小字#小字と小名|小名]] 白子宿 村内河越街道入口の宿」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下白子村}}。}}、[[膝折宿|膝折]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の[[膝折宿]]に、「川越街道村内に係り馬継の宿あり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 膝折宿}}。}}、大和田、大井{{efn|『新編武蔵風土記稿』の大井村に、「河越城に至る街道の宿駅」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 大井村}}。}}の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。川越からはさらに[[児玉街道]]となり[[上野国]][[藤岡市|藤岡]]に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて[[川越・児玉往還|川越児玉往還]]とも言う。中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり[[五街道]]に準じる街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。物資の輸送を行う[[新河岸川]][[舟運]]と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の[[参勤交代]]の道でもあったが、距離が短く[[大名]]の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。
 
[[寛政]]年間に江戸で焼き芋が流行すると、[[文化 (元号)|文化年間]]に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝コピーとして、「'''栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)'''」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。