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[[File:YamadaNagamasa.jpg|thumb|200px|山田長政]]
日本の[[武士]]も古い段階においては傭兵的要素を多分に有していたと言われている。[[律令制]]の衰微に伴って[[軍団 (古代日本)|軍団]]に替わって設けられた[[健児]]も[[庸]]・[[調]]の免除を受けた上に[[兵粮]]などの名目で多額の金米が支給されていた。その後、[[軍団]]制が復活するものの、実態は[[徴兵制]]的なものから傭兵的制度に移行していく事になる。
例えば、[[天平]]12年に起きた[[藤原広嗣の乱]]において、戦闘の帰趨を決したのは徴兵で集めた軍団兵ではなく、異民族の[[隼人]]や[[私兵]]として[[郡司]]に雇われていた騎馬兵だった<ref name="Fukuda">{{Cite book ja-jp|和書 |author = [[福田豊彦]] |title = いくさ |year = 1993 |chapter = 戦士とその集団 |publisher = 中央公論新社 |series = 中世を考える |editor = [[福田豊彦]] |isbn = 4642027041 |ref = harv }} pp.72-81.</ref>。
 
[[大同 (日本)|大同]]元年10月に、[[蝦夷]]の俘囚640人を[[太宰府]]に移動させて防人にしたのを始めとして、9世紀を通じて朝廷は東国で得た戦争捕虜を給養し、防人や[[海賊]]対策として西国で活用した<ref name="Fukuda"/>。