「Atari 2600」の版間の差分

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資金難から[[1976年]]に[[ノーラン・ブッシュネル]]は[[タイム・ワーナー|ワーナー・コミュニケーションズ]]にアタリ社の全株式を売却。翌1977年11月に「Video Computer System」の名で発売された<ref name="denshi">コアムックシリーズNO.682『電子ゲーム なつかしブック』p.58.</ref>。
 
日本では[[エポック社]]から[[1979年]]に「カセットTVゲーム」の名称で輸入販売された。当時の販売価格57,300円<ref name="4Gamer.net20110616"/>。[[RF接続|RF]]出力するチャンネルの切り替えが出来なかったため「1ch専用機」「2ch専用機」のバリエーションで販売された。前述また、Atari VCS代表作となった『[[スペースインベーダー]]』の移植版も、エポック社からの移植要請を受けてアタリ社が制作した物である<ref>[http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/dataroom/history/80.html Classic Videogame Station ODYSSEY: Videogame history]</ref>。
発売当初は、前年にフェアチャイルド社から発売された世界初の[[ロムカセット]]式ゲーム機Video Entertainment System(後の[[フェアチャイルド・チャンネルF|チャンネルF]])との競合もあり、その売り上げは芳しくなく、アタリとAtari 2600の生みの親であるブッシュネルが解任されるなどの事態にも至った。
 
だがプログラム仕様を公開して[[サードパーティー]]によるゲームソフトの開発・販売を可能としたことによって、家庭用ゲーム機独自の市場を形成するに至り、当時としてはグラフィックやサウンド機能に優れたVCSは市場をほぼ独占。日本でブームとなった『[[スペースインベーダー]]』の移植版を[[1980年]]に発売して大ヒットとなった。
 
日本では[[エポック社]]から[[1979年]]に「カセットTVゲーム」の名称で輸入販売された。当時の販売価格57,300円。[[RF接続|RF]]出力するチャンネルの切り替えが出来なかったため「1ch専用機」「2ch専用機」のバリエーションで販売された。前述のスペースインベーダーも、エポック社からの移植要請を受けてアタリ社が制作した物である<ref>[http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/dataroom/history/80.html Classic Videogame Station ODYSSEY: Videogame history]</ref>。
 
[[1982年]]には後継機となる[[Atari 5200]]が発売されたが、VCSもAtari 2600と改称した上で継続して販売された。
 
しかし、1982年にはサードパーティによるゲームソフトの粗製濫造<ref name="denshi"/>に加えて、[[コレコビジョン]]や[[アルカディア (ゲーム機)|エマーソン・アルカディア]]といった新しいゲーム機や[[コモドール64]]に代表される低価格パソコンとの競争にAtari 2600は晒されることになった。また、売上の増大に生産が追い付いていなかった前年10月にアタリ社が販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めた結果、品切れを避けるために販売代理店が水増し発注を行い、その誤った需要予測に基づいて生産を行ったアタリ社は過剰在庫を抱えることとなった。1982年春に発売された『[[パックマン]]』のAtari 2600移植版カートリッジは当時稼働していた本体の数を数百万本も上回る数が生産された<ref>{{cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/3551/a_history_of_gaming_platforms_.php?page=5 |title=A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS|author=Matt Barton, Bill Loguidice|publisher=Gamasutra|date=2008-2-28|accessdate=2014-05-22|language=英語}}</ref>。クリスマス商戦に向けて発売された『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』も売上以上に大量の売れ残りが発生し、翌年には『パックマン』とともにニューメキシコ州アラモゴード市の埋め立て地「[[ビデオゲームの墓場]]」に埋められることとなる<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1983/09/28/business/atari-parts-are-dumped.html |title=Atari Parts Are Dumped |publisher=The New York Times |date=1983-09-28|accessdate=2014-05-22}}</ref>。1982年の第4四半期から翌1983年の第1四半期にかけてアタリの売上は急落。これが発端となり、1985年までにAtari 2600のみならず米国家庭用ゲーム市場そのものが急速に衰退した(いわゆる[[アタリショック]])<ref name="denshi"/><ref name="藤田直樹1">{{Cite journal |和書 |author = 藤田直樹 |title = 米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)― |date = 1998-11 |publisher = 京都大學經濟學會 |journal = 經濟論叢 |volume = 162 |number = 5-6 |naid = 120000904860 |pages = 54-71 |ref = harv}}</ref>。
 
[[1984年]]、アタリ社の家庭用ゲーム部門はアタリコープとなり、1986年にAtari 5200の後継機[[Atari 7800]]と共にAtari 2600 Jrと呼ばれる[[廉価版]]を発売した。Atari 2600は業務用作品の移植の試みも多く、[[ローンチタイトル]]となった9本の作品内の半数以上が業務用作品を元としており、その中にはポンも含まれていた。その後も『スペースインベーダー』や『[[パックマン]]』、『[[サーカス (ゲーム)|サーカス]]』などの有名ゲームが移植された。
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; Atari 2800
: 筐体デザインを変更した日本市場向け仕様。付属コントローラもジョイスティックのつまみ部分がパドルになっていて、ジョイスティック・パドル一体型という独特な形状だった<ref name="denshi"/>。
: 日本国内においてアタリファーイースト(FarEast = 極東、[[アタリジャパン]]とは別の子会社)も設立され、1983年5月に定価24,800円で発売された。しかし同じ年には任天堂の[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン、定価14,800円)をはじめとする、多数の安価な家庭用ゲームハードが相次いで発売されており、ちょうど次世代機競争のような形で苦戦を強いられた。当時の雑誌記事では当時参入したばかりのセガ(後の[[セガゲームス]])の[[SG-1000]]を抑えてファミコンに次ぐ2位と評価された例もあった<ref>『月刊コロコロコミック』1983年10月号、p154 - p157</ref>。当時の日本ではまだ欧米偏重の意識が根強く、件の雑誌評価でもアメリカ製という点がアピールされていた。また世界で実績のあるゲームタイトルを短期間で多数用意できたことも利点だった。しかしそれでもファミコンが群を抜く別格の高評価だったことには変わりなく、セガや[[エポック社]]と違って翌年以降にも後継ハードで対抗するような展開の無かったAtariは、結果的に一年たたずに撤退した<ref name="denshi"/>。
: ゲームソフトは31タイトルを発売、この内の25タイトルが本体と同時発売。全てAtari 2600用ソフトのコンバージョンで、日本向け専用ソフトは1本も発売されなかった<ref name="denshi"/>。
; [[:en:Atari Flashback#Atari Flashback|Atari Flashback]]
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: [[学研ホールディングス|学習研究社]]の[[TVボーイ]]とは異なる。
{{Main|en:TV Boy}}
 
== 反響 ==
発売当初は、前年にフェアチャイルド社から発売された世界初の[[ロムカセット]]式ゲーム機Video Entertainment System(後の[[フェアチャイルド・チャンネルF|チャンネルF]])との競合もあり、その売り上げは芳しくなく、アタリとAtari 2600の生みの親であるブッシュネルが解任されるなどの事態にも至った。
 
だがプログラム仕様を公開して[[サードパーティー]]によるゲームソフトの開発・販売を可能としたことによって、家庭用ゲーム機独自の市場を形成するに至り、当時としてはグラフィックやサウンド機能に優れたVCSは市場をほぼ独占。日本でブームとなった『[[スペースインベーダー]]』の移植版を[[1980年]]に発売して大ヒットとなった。
 
=== 日本での反響 ===
日本での本体の販売価格は57,300円、カートリッジの販売価格は12,500円と高く設定されていたことに加え、[[ゲーム&ウォッチ]]といった安価な携帯型ゲーム機が普及していたため、日本での人気はいまひとつであった<ref name="denfami20191010">{{Cite web|title=輸入テレビゲーム機 vs. 純国産ゲーム機~ハンディゲーム機が占拠する市場で選ばれたつぎの一手──ファミコン以前のテレビゲーム機の系譜を語ろう|url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/191010a|date=2019年10月10日 |website=電ファミニコゲーマー |accessdate=2019-10-12|author=武層新木朗}} - 週刊ファミ通誌で2008年9月12日号から掲載された全9回の短期集中連載記事の電子化</ref>。ライターの武層新木朗はこれらの二つに加え、VCS版『スペースインベーダー』のグラフィックがオリジナル版よりも劣っていた点が指摘されていたことや、「そして、人間とコンピューターとの対話であるインベーダーゲームは、自然界には決して存在してない遊びだから、子どもが一心不乱にブラウン管を見つめる光景は、とくにシューティングに興味がないような親たちの目には、ずいぶん奇異で不健康な遊びに映ったことだろう。」と保護者の理解が得られなかったことが、日本国内におけるVCSの販売不振につながったのではないかとみている<ref>{{Cite web|title=インベーダーゲームを家庭へ送り込め! 本格的マイコンゲーム機の登場によって進化するハードと市場──ファミコン以前のテレビゲーム機の系譜を語ろう|url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190606e|website=電ファミニコゲーマー – ゲームの面白い記事読んでみない?|accessdate=2019-10-12|language=ja}}</ref>。
 
: 日本国内1983年5月おいては、設立されたばかりのアタリファーイースト(FarEast = 極東、[[アタリジャパン]]とは別の子会社)も設立され、1983年5月から日本市場向け Atari 2800が定価24,800円で発売された。しかし同じ年には任天堂の[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン、定価14,800円)をはじめとする、多数の安価な家庭用ゲームハードが相次いで発売されており、ちょうど次世代機競争のような形で苦戦を強いられた。当時の児童向け漫画雑誌記事で[[月刊コロコロコミック]]1983年10月号に当時参入したばかりのセガ(後の[[セガゲームス]])の[[SG-1000]]を抑えてファミコンに次ぐ2位と評価する記事が掲載された例もあっていた<ref>『月刊コロコロコミック』1983年10月号、p154 - p157</ref>。当時の日本ではだ欧米偏重の意識が根強く件の雑誌評価でもアメリカ製という点がアピールされていた。また世界で実績のあるゲームタイトルを短期間で多数用意できたことも利点だった。しかしそれでもファミコンが群を抜く別格の高評価だったことには変わりなく、セガや[[エポック社]]と違って翌年以降にも後継ハードで対抗するような展開の無かったAtariは、結果的に一年たたずに日本から撤退した<ref name="denshi"/>。
 
=== アタリショック以降 ===
{{Main|アタリショック}}
しかし、1982年にはサードパーティによるゲームソフトの粗製濫造<ref name="denshi"/>に加えて、[[コレコビジョン]]や[[アルカディア (ゲーム機)|エマーソン・アルカディア]]といった新しいゲーム機や[[コモドール64]]に代表される低価格パソコンとの競争にAtari 2600は晒されることになった。また、売上の増大に生産が追い付いていなかった前年10月にアタリ社が販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めた結果、品切れを避けるために販売代理店が水増し発注を行い、その誤った需要予測に基づいて生産を行ったアタリ社は過剰在庫を抱えることとなった。たとえば、1982年春に発売された『[[パックマン]]』のAtari 2600移植版カートリッジは当時稼働していた本体の数を数百万本も上回る数が生産された<ref>{{cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/3551/a_history_of_gaming_platforms_.php?page=5 |title=A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS|author=Matt Barton, Bill Loguidice|publisher=Gamasutra|date=2008-2-28|accessdate=2014-05-22|language=英語}}</ref>。クリスマス商戦に向けて発売された『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』も売上以上に大量の売れ残りが発生し、翌年には『パックマン』とともにニューメキシコ州アラモゴード市の埋め立て地「[[ビデオゲームの墓場]]」に埋められることとなる<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1983/09/28/business/atari-parts-are-dumped.html |title=Atari Parts Are Dumped |publisher=The New York Times |date=1983-09-28|accessdate=2014-05-22}}</ref>。1982年の第4四半期から翌1983年の第1四半期にかけてアタリの売上は急落。これが発端となり、1985年までにAtari 2600のみならず米国家庭用ゲーム市場そのものが急速に衰退した(いわゆる、一連の凋落はのちに[[アタリショック]]として知られるようになった<ref name="denshi"/><ref name="藤田直樹1">{{Cite journal |和書 |author = 藤田直樹 |title = 米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)― |date = 1998-11 |publisher = 京都大學經濟學會 |journal = 經濟論叢 |volume = 162 |number = 5-6 |naid = 120000904860 |pages = 54-71 |ref = harv}}</ref><ref name="4Gamer.net20110616">{{Cite web|title=ビデオゲームの歴史がここに集結。激レアなコンシューマゲーム実機に触れられたE3会場の「VIDEOGAME HISTORY MUSEUM」ブースを紹介|url=https://www.4gamer.net/games/042/G004287/20110615040/|website=www.4gamer.net|accessdate=2019-10-12|publisher=Aetas|author=稲元徹也|date=2011-06-16}}</ref>。
 
== 脚注 ==