「日本」の版間の差分

→‎国(クニ)の形成と朝廷の発足: 漢字「和」は国字ではなく事実誤認
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==== 国(クニ)の形成と朝廷の発足 ====
国の形成は大陸から農業が移入された弥生時代に同時多発的に始まった。[[7世紀]]に国号を日本に改めるまでは[[倭国]]と称し、倭は現代でも使われる「和」という漢字の起源になった。この時代の日本列島では複数の豪族が土地を分割して統治しており、統一国家は成立していなかった。各国を治める豪族は、国の規模を問わず自身が日本全体の代表である事を示すために、対外的に倭国の王を名乗る例が多かったため、海外の記録に残る倭国の王は真に倭国全体を代表していたかも定かではない
 
倭国の住人は[[倭人]]という名称で、倭国よりも遥かに記録技法が発達していた中国の書物に記録された。弥生時代の中期から後期にかけて書かれた中国の[[後漢書]]が初出で、西暦57年に名称不詳の[[奴国]]の王が[[後漢]]に朝貢し、続いて西暦107年に倭国の王である[[帥升]]が[[後漢]]に朝貢し、どちらも貢物の見返りとして中国皇帝に謁見を請うたことが記録された。その後、2世紀後半に多数の国の間で[[倭国大乱]]が起き、戦乱を収めるために[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]が倭国の統一的な女王の座に就いた。しかし、卑弥呼の死後に男子が王の座についたことで再び戦乱が起きるようになった。[[3世紀]]に中国で書かれた[[魏志倭人伝]]は、現代に伝わる内で最も早期の[[上代日本語]]の書物となり、[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の存在も記録された。[[3世紀]]には近畿地方において[[王]](のちの[[大王 (ヤマト王権)|大王]])を中心とする[[ヤマト王権]]が成立し、後の[[朝廷]]の礎となった。[[大化の改新]]を経て、[[7世紀]]には国号を日本国に改め、7世紀後半の[[天武天皇]]の時代に[[天皇]]を中心とした政治体制が成立し、[[親政|天皇親政]]が開始され、[[律令]]の編纂が開始された。同時に、中国の優れた制度も次々に取り入れていった。律が完成する以前、不完全ではあるが、[[668年]]に[[近江令]]、689年に[[飛鳥浄御原令]]が制定・実施されている。8世紀最初の年となる701年に[[大宝律令]]が制定・実施され、日本で初めて完全な[[律令制]]が導入された。また、[[元号]]が継続的に使用され、[[都城]]が造営された。[[平安時代]]に入ると、[[藤原氏]]が天皇に代わって政権を執る[[摂関政治]]も行われた。しかし、完全な統一国家としての日本国は未だ実現されておらず、事あるごとに大きな内乱が生じた。
 
倭国の住人は[[倭人]]という名称で、倭国よりも遥かに記録技法が発達していた中国の書物に記録された。弥生時代の中期から後期にかけて書かれた中国の[[後漢書]]が初出で、西暦57年に名称不詳の[[奴国]]の王が[[後漢]]に朝貢し、続いて西暦107年に倭国の王である[[帥升]]が[[後漢]]に朝貢し、どちらも貢物の見返りとして中国皇帝に謁見を請うたことが記録された。その後、2世紀後半に多数の国の間で[[倭国大乱]]が起き、戦乱を収めるために[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]が倭国の統一的な女王の座に就いた。しかし、卑弥呼の死後に男子が王の座についたことで再び戦乱が起きるようになった。[[3世紀]]に中国で書かれた[[魏志倭人伝]]は、現代に伝わる内で最も早期の[[上代日本語]]の書物となり、[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の存在も記録された。[[3世紀]]には近畿地方において[[王]](のちの[[大王 (ヤマト王権)|大王]])を中心とする[[ヤマト王権]]が成立し、後の[[朝廷]]の礎となった。[[大化の改新]]を経て、[[7世紀]]には国号を日本国に改め、7世紀後半の[[天武天皇]]の時代に[[天皇]]を中心とした政治体制が成立し、[[親政|天皇親政]]が開始され、[[律令]]の編纂が開始された。同時に、中国の優れた制度も次々に取り入れていった。律が完成する以前、不完全ではあるが、[[668年]]に[[近江令]]、689年に[[飛鳥浄御原令]]が制定・実施されている。8世紀最初の年となる701年に[[大宝律令]]が制定・実施され、日本で初めて完全な[[律令制]]が導入された。また、[[元号]]が継続的に使用され、[[都城]]が造営された。[[平安時代]]に入ると、[[藤原氏]]が天皇に代わって政権を執る[[摂関政治]]も行われた。しかし、完全な統一国家としての日本国は未だ実現されておらず、事あるごとに大きな内乱が生じた。
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=== 古代~中世 ===
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==== 武家政権の盛衰と開国 ====
平安時代末期より[[武家政権]]が成立し、以来数百年に渡って幾度も交替した。鎌倉時代には、元寇と呼ばれる、モンゴルからの世界最大の艦隊による2度の侵攻により占領の危機に晒されるも、元軍は日本の武士の攻撃と、海上で突然襲われた強い風や嵐により壊滅した。さらに中世には[[キリスト教]]が伝わった。江戸時代に至って[[キリスト教]]を危険視した江戸幕府が交際国を限定する[[鎖国]]を行い、[[1820年代]]から[[1830年代]]にかけて外圧への反発として[[尊王攘夷|尊王攘夷論]]が提唱されるに至るが、外圧に屈する形でついに[[1859年]]に開国した。これにより大量運搬が可能な西洋の蒸気船が日本に寄港できるようになると、[[うちわ|団扇]]、[[扇子]]、[[浮世絵]]、それらで用いられた[[印刷|印刷技術]]、[[陶磁器]]、[[漆器]]など、日本の大衆向けの生産物が西洋に伝わり、西洋文化に大きな影響を与える[[ジャポニスム]]が起こる。[[1851年]]、西洋との圧倒的な国力差を見せ付けられた事で、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成を柱とする[[殖産興業]]が開始された。[[1854年]]のペリーの来航では、日本に[[電信|電信機]]が贈られ、日本初の[[電気通信]]が試験的に行われたが、[[幕末]]の混乱で、[[1869年]]になるまでは普及を開始しなかった。[[1878年]]には日本初のベル式1号電話機が作られ、[[1890年]]に電話サービスが開始された。江戸時代末期には、山間部を中心に[[狩猟採集社会|狩猟採集]]を行い日本国内を放浪して暮らす「[[サンカ]]」が初めて記録に現れた。明治維新後の国家の近代化に伴い、サンカは定住を余儀なくされ[[1950年代]]には消滅した。
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