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曹丕が魏王を継ぐと、領軍[[雑号将軍|将軍]]・東陽亭侯となった。[[呉 (三国)|呉]]に備えていた[[夏侯惇]]が死去すると、その後任として鎮南将軍・仮節・[[都督]]諸軍事に任命され、任地へ赴く際には曹丕自ら手を取って見送られるという厚遇を受けた。
 
夷陵の戦い間<ref>『三国志集解』</ref>、孫権は部将を派遣して歴陽に駐屯していたが、曹休はこれを破り、さらに長江を渡って蕪湖にある数千の陣営を焼いたという。曹休は征東将軍・[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]に任じられ、安陽郷侯となった。この頃に母が亡くなり、曹休は飲食も受け付けず憔悴し、曹丕から心配されたという。
 
魏は、呉に対して攻勢をかけることに決め、[[曹仁]]・曹休・曹真・[[夏侯尚]]と合わせ、三路より呉を攻めた([[濡須口の戦い#第三次戦役・三方面攻撃(222年-223年)|222年から223年にかけての三方面での戦い]])。曹休は征東大将軍となり、黄節を仮されて仮節鉞となり、[[張遼]]ら20軍余りを指揮監督した。呉の[[呂範]]が[[徐盛]]・[[全ソウ|全琮]]らを率いて洞口で曹休を迎え撃ったが、呂範の船団は暴風雨に襲われ多くの船が転覆・流されたりした。曹休・張遼・臧覇・賈逵・王凌らはそこを攻撃し、約数千人を溺死・戦死させた<ref>『三国志』魏書文帝紀の注に引く『魏書』によれば、「曹休は呂範らと戦い、四万人の首を斬り、一万艘の船を捕獲した」という勅令が出されている。因みに、『三国志』魏書[[国淵]]伝には「魏軍が賊軍を破った場合、それを報告する上奏文では、討ち取った首級・戦果を10倍に誇張して記載することが通例となっている」という旨の記述がある。</ref>。また、曹休が[[臧覇]]に命じ徐陵を襲撃させ勝利した。呉軍の徐盛・全琮は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取ったが、臧覇が大敗した。呉軍は勝利に乗じて曹休と張遼などを打ち破った<ref>『建康実録』</ref>。この頃、曹休などは賀斉軍の威容に畏れをなし、そのまま軍をまとめて退き返した。曹休は揚州牧に任命され、呉への備えを任された。