「惟宗氏」の版間の差分

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家系としては[[朝臣]]または[[宿禰]]の姓をもつもの、また{{読み仮名|伊統|これむね}}と称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗・[[惟宗直本|直本]]兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは[[讃岐国]][[香川郡]]を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、[[本貫]]を京に移し、[[883年]]に同族の[[秦氏|秦宿禰]]・[[秦氏|秦忌寸]]とともに惟宗朝臣の姓を賜った{{Sfn|太田|1934|p=2422}}。惟宗直本は『[[律集解]]』と『[[令集解]]』の著者として名高い{{Sfn|太田|1934|p=2422}}。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『[[本朝月令]]』を書いた[[惟宗公方]]、『[[政事要略]]』を書いた[[惟宗允亮]](律令にちなみ「{{読み仮名|令宗|よしむね}}朝臣」を賜った)が有名{{Sfn|太田|1934|p=2422}}。
 
また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。[[惟宗広言]]もしくは[[惟宗忠康]]の子・[[島津忠久|忠久]]は[[日向国]]に下って土着し、当地にあった荘園「[[島津荘]]」ちなんで[[島津氏]]と名乗るようになったとされる{{Sfn|太田|1934|p=2424}}。ただし忠久は[[源頼朝]]の[[落胤]]と自称して(後世の[[伝承]])、島津氏は(名目上は)[[清和源氏]]ということになっている{{Sfn|太田|1934|p=2424}}。
 
また[[対馬]]の[[宗氏]](のちに[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]][[平知盛|知盛流]]を自称する){{Sfn|太田|1934|p=2424}}と[[神保氏]]と[[執印氏]]も惟宗氏の子孫とする。そのほかに[[安芸氏]]などが惟宗氏の子孫と自称した。