「ヤァ・アサンテワァ」の版間の差分

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| birth_date = 1840年代生まれ
| birth_place = [[アシャンティ王国]]{{仮リンク|ベシーズセアセ|en|Besease}}
| death_date = {{Death date and age|df=y|1921|10|17|1840}}
| death_place = [[セーシェル]]
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}}
'''ヤァ・アサンテワァ'''(Yaa Asantewaa、1840年代 - 1921年10月17日)は、現在のガーナ南部に存在した[[アシャンティ連合王国]]内の一国である{{仮リンク|エジス=ジュアベン地方|label=エジス|en|Ejisu-JuanenJuaben Municipal District}}王国の{{仮リンク|王母 (アフリカ)|label=王母|en|Queen mother’smothers (Africa)}}。[[1900年]]にアシャンティが[[イギリス帝国]]に対して蜂起した、[[黄金の床几戦争]](ヤァ・アサンテワァ戦争としても知られる)の指導者であった<ref>{{Cite book|editor=[[Kwame Anthony Appiah|Appiah, Kwame Anthony]]、[[Henry Louis Gates, Jr.]]|title=Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience|page=276}}</ref>。
 
==前半生==
ヤァ・アサンテワァは1830年ごろにガーナ南部の{{仮リンク|ベセアセ|en|Besease}}で生まれた<ref name="Encyclopedia of the African Diaspora" />。母はアソナ(Asona)家という母系[[リネージ|一族]]に連なる王族の Nana Ata Po あるいは Nana Teepo という女性、父はベセアセに近いアンパバメ(Ampabame)出身の Kwaku Ampona という男性である<ref name="Encyclopedia of the African Diaspora" />。兄弟は弟のアフレーン・パニン(Afrane Panin)のみであり、弟は後に近在のエドウェソ(Edweso)の王になった<ref name=Boahen>{{Cite book|title=Yaa Asantewaa and the Asante-British War of 1900-1|publisher=James Currey Publishers|author=A. Adu Boahen|year=2003|pages=116-117|ISBN=9780852554432}}</ref>。何事もなく子供時代を過ごし、{{仮リンク|ボアンクラ|en|Boankra}}周辺の土地を耕作した。彼女は[[クマシ]]出身の男性と[[複婚]]し、娘を儲けた<ref name=dq>{{cite web|url=http://dangerouswomenproject.org/2016/07/22/yaa-asantewaa/|title=Yaa Asantewaa|author=Korsah, Chantal|publisher=Dangerous Women|date=2016-07-22|accessdate=2017-02-20}}</ref>。
 
==騒乱の序曲==
弟がナナ・アクワシ・アフレーン・オクペセ(Nana Akwasi Afrane Okpese)としてエドウェソを統治する1880年代から90年代のいずれかの時期に、ヤァ・アサンテワァは王母に任命された<ref name=Boahen />(Dictionary of African Biographyによればエドウェソではなくエジス、就任は1887年とされる<ref name=Oxford>{{Cite book|title=Dictionary of African Biography|author=Linda R. Day|publisher=[[オックスフォード大学出版局]](アメリカ合衆国)|date=2012-02-02|page=274-275|ISBN=9780195382075}}</ref>)。当時は、アシャンティ連合王国が1883年から1888年の内戦など、アシャンティの未来に脅威を与える一連の事件を経た時期であった。1894年に弟が死ぬと、ヤァ・アサンテワァは王母としての権利を行使し、孫のコフィ・テネ(Kofi Tene)をエジス王アフレーン・クマア(Afrane Kumaa)とした<ref name=Boahen />。
 
イギリスが1896年に{{仮リンク|アシャンティの支配者一覧|label=アシャンティ王|en|List of rulers of Asante}}{{仮リンク|プレンペー1世|en|Prempeh I}}などのを含むアシャンティの支配者の一団と共に孫を[[セーシェル]]に追放すると、ヤァ・アサンテワァはエジスの摂政になった。プレンペー1世が追放されると、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス領]][[英領ゴールド・コースト|ゴールド・コースト]]総督{{仮リンク|フレデリック・ミッチェル・ホジソン|en|Frederick Mitchell Hodgson}}は、アシャンティ国の象徴[[黄金の床几]]を要求した<ref name=dq/>。この要求は、アシャンティの残存支配者層による[[クマシ]]での秘密会合へと発展し、王の帰還の安全を如何に図るかが議題となった。この点についての合意はなされなかった。ヤァ・アサンテワァはこの会議に出席し、立ち上がり、現在では有名なこの言葉を発して会議参加者に訴えた。
 
{{quote|今皆さんの一部が王の為に戦いに赴くことを恐れているのは分かっています。{{仮リンク|オセイ・コフィ・トゥトゥ1世|en|Osei Kofi Tutu I}}や{{仮リンク|オコンフォ・アノキエ|en|Okomfo Anokye}}、{{仮リンク|オポク・ワレ1世|label=オポク・ワレ|en|Opoku Ware I}}の勇敢な時代なら、指導者は一発も撃つことなく王が連れ去られるのを座視することはないでしょう。以前の白人には、総督が今朝私達に行ったような挑発をアシャンティの指導者にあえて行うことはありませんでした。アシャンティの勇気はこんなものだというのは事実でしょうか。信じられません。あり得ません! このように言うしかありません。あなた方アシャンティの男が征かないのなら、私達が征きます。私達女性が征きます。同志の女性に呼び掛けます。私達は白人と戦います。全員が戦場に倒れるその時まで戦います。<ref>{{cite web|url=http://www.blackhistoryheroes.com/2010/05/queen-mother-nana-yaa-asantewaa.html|title=Queen Mother Nana Yaa Asantewaa of West Africa's Ashanti Empire |publisher=Black History Heroes|accessdate=2017-02-20 |language=}}</ref>}}
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:大砲に直面して戦う女性
:貴女は大事を成し遂げた
:よく成し遂げた」)<ref>[http://www.answers.com/topic/yaa-asantewaa "Yaa Asantewaa"], in ''The Oxford Encyclopedia of Women in World History'', 2008, quoting Arhin, p. 97. ISBN 9780195148909 {{doi|10.1093/acref/9780195148909.001.0001}}</ref>}}
 
ガーナ社会で更なる女性指導者を輩出する重要性を強調するために、{{仮リンク|ヤァ・アサンテワァ中等学校|label=ヤァ・アサンテワァ女子中等学校|en|Yaa Asantewaa Secondary School}}が{{仮リンク|ガーナ教育信託|en|Ghana Education Trust}}の基金で1960年にクマシで創立された<ref>{{cite web|url=http://www.eveyo.com/newsnow/advt.php?blurb=8510|title=Yaa Asantewaa Senior High School|publisher=Eveyo|accessdate=2017-02-20 |language=}}</ref>。
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==関連文献==
* Ivor Agyeman-Duah, ''Yaa Asantewaa: The Heroism of an African Queen'', Accra, Ghana: Centre for Intellectual Renewal, 1999.
* Nana Arhin Brempong ({{仮リンク|クワメ・アヒン|en|Kwame Arhin}}), "The Role of Nana Yaa Asantewaa in the 1900 Asante War of Resistance", ''Ghana Studies'' 3, 2000, {{doi| 10.1353/ghs.2000.0004}} pp.&nbsp;97–110.
 
==出典==