「北畠具教」の版間の差分

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[[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]])、[[従五位|従五位下]][[侍従]]に叙任<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>。以後も天文21年([[1552年]])[[従四位|従四位下]][[参議]]に叙任されて[[公卿]]に列し、天文23年([[1554年]])に[[従三位]][[中納言|権中納言]]に叙任されているなど、[[朝廷]]から[[官位]]を授かって順風満帆な青年期を過ごした<ref name=日本大百科全書/>。この間の天文22年([[1553年]])に父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。
 
[[弘治 _(日本)|弘治]]元年([[1555年]])、父・晴具の命により伊勢国[[安濃郡 _(三重県)|安濃郡]]を支配していた[[長野工藤氏]]と戦い、[[永禄]]元年([[1558年]])に次男・[[長野具藤|具藤]]を長野工藤氏の[[養子縁組|養嗣子]]とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>、永禄5年([[1562年]])5月5日に[[長野稙藤]]と[[長野藤定]]が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による[[暗殺]]説もある)。
 
永禄3年([[1560年]])、[[小浜景隆]]ら[[志摩国]]の[[国人]]達を援助して[[九鬼氏]]の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の[[九鬼浄隆]]は戦死、弟の[[九鬼嘉隆]]は逃亡した。)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に[[大和国]][[宇陀郡]]の国人領主・[[秋山教家]]が[[三好氏]]の婿{{Efn|また、教家が三好氏に近づいたのは永禄5年([[1562年]])の[[教興寺の戦い]]の後と思われる。}}として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた<ref name=朝日日本歴史人物事典/>。
 
永禄6年([[1563年]])、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し<ref name=日本大百科全書/>、嫡男の[[北畠具房|具房]]に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。
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=== 最期 ===
天正4年([[1576年]])11月25日、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣([[長野左京亮]][[加留左京進]]([[藤方朝成]]の名代))たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の[[大橋長時]][[松田之信]][[上杉頼義]]ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>。[[享年]]49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・[[田丸城]]において殺害された。これにより[[戦国大名]]としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた([[三瀬の変]])。
 
なお、具教の[[首級]]は、加留左京進の[[家臣]]である[[伊東重内]]らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた[[芝山秀時]][[大宮吉守|大宮多気丸]]らに奪い返され、秀時の父である[[芝山秀定]]により御所尾山に埋葬された<ref name="北畠氏の研究"/>。
 
== 人物・逸話 ==