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1886年にヘンダーソンが死ぬと、トンプソンは再びニューヨークに赴き、さらに1888-1889年の冬のシーズンと1891年にもアメリカで公演を行った<ref name=DNB/>。1887年にはロンドンのストランド劇場で自らマネジメントを手がけるようになり、コミックオペラ『モカのサルタン』 ''The Sultan of Mocha''を上演した<ref name=DNB/>。その後、フランスのヴォードヴィル・オペレッタである『バベット』(''Babette'', 1888)に出演したが、役に声があっていないと評された<ref name=Ganzl/>。アメリカにおける最後の出演は1894年の『社会の皮』(''The Crust of Society'') で、助演をつとめた<ref name=DNB/>。 1985年にはロンドンでジョージ・エドワーズのエドワード朝ミュージカルコメディ『画家のモデル』(''An Artist's Model'') に出演し、1899年5月2日のロンドンでの慈善興行では[[ウィリアム・S・ギルバート]]の『結婚行進曲』(''The Wedding March'') に顔を出した。ギルバートがトンプソンのために書いた韻文の「別れの挨拶」も朗唱したという<ref>''The Pall Mall Gazette'', 3 May 1899, p. 6</ref>。最後の出演は1904年、[[ヴィクトル・ユゴー]]の『[[リュイ・ブラス]]』の翻案である『王妃のロマンス』(''A Queen's Romance'') で、アルバカーキ公爵夫人を演じた<ref>''The Daily Mirror'' obituary, 19 November 1908, p. 4</ref>。
 
トンプソンは1908年11月17日、ロンドンで70歳で亡くなった<ref name=DNB/>。{{仮リンク|ケンサル・グリーン墓地|en|Kensal Green Cemetery}}に埋葬されている<ref name=Friends/>。
 
== 評価と影響 ==
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娘の[[ゼフィ・ティルベリー|ゼフィ・アグネス・リディア・ティルベリー]]は女優になり、最初はロンドンの舞台に立っていた<ref name=Sherson/><ref>[http://www.phyllis.demon.co.uk/theatricalia/07class/souv.htm "Classical Plays: Souvenirs and Portraits"], Rob Wilton Theatricalia</ref>。のちに映画で活躍するようになり、『[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]』(1940年)では祖母の役を、『[[タバコ・ロード]]』(1941年)ではグランマ・レスターの役を演じた<ref>[https://www.imdb.com/name/nm0863193/ Zeffie Tilbury], The Internet Movie Database</ref>。
 
妹の{{仮リンク|クララ・T・ブレイシー|en|Clara T. Bracy}}も女優で、最初は舞台女優として[[ギルバート・アンド・サリヴァン]]の作品などに出演し、オーストラリアでも活躍していた<ref>Desley Dean, "Cosmopolitans at Home: Judith Anderson and the American Aspirations of J. C. Williamson Stock Company Members, 1897-1918", Robert Dixon and Veronica Kelly, ed., ''Impact of the Modern: Vernacular Modernities in Australia 1870s-1960s'', Sydney University Press, 2008, 202-222, p. 207.</ref>。その後[[サイレント映画]]で活動するようになり、[[D・W・グリフィス]]の『ピッグ横丁のならず者』(1912年)などに出演した<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|title=映画史上の名作番外編ーサイレント小特集IV|url=http://www.cinemavera.com/|website=[[シネマヴェーラ渋谷]]|accessdate=2019-09-27|language=ja|publisher=シネマヴェーラ渋谷}}</ref>。
 
==脚注==