「キューバ」の版間の差分

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[[日本語]]の表記は、'''キューバ共和国'''。通称、'''キューバ'''。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。[[国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は、'''玖瑪'''、'''玖馬'''、'''久場'''、'''古巴'''など。[[中華人民共和国]]においては「古巴」(Gǔbā)と表記している。
 
国名は、[[カリブ海]]最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味の[[インディオ]]([[タイノ族]])の言葉である'''クバナカン'''<ref>{{lang-es-short|Cubanacan}}、現在の[[オルギン]]</ref>が由来であるとされているl{{Main|キューバの歴史}}
 
==歴史==
{{Main|キューバの歴史}}
ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、[[南アメリカ]]の[[ギアナ地方]]から海を渡ってきた[[アラワク族]]系の[[タイノ族]]や、[[シボネイ族]]、[[カリブ族]]と呼ばれる[[先住民]]が暮らしていた。
 
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精糖会社では[[ユナイテッド・フルーツ]]が国有化された。この他、1960年7月に国有化された米系企業から幾つかをピックアップする。[[ロスチャイルド家|Rothschild]]-Samuel-Suignan(たばこ会社)、[[ゼネラル・モーターズ]]・アクセプタンス(産業金融)、[[オクシデンタル・ペトロリウム|オクシデンタル生命]]、[[アメリカン・インターナショナル・グループ]]、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現[[JPモルガン・チェース]])<ref>桜井雅夫 ほか2名編 『発展途上国の外国系企業国有化 解説とリスト』 アジア経済研究所 1978年 100-106頁</ref>。
 
1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続okpgpけていたキューバ産[[砂糖]]の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人反革命軍をキューバ南部のヒロ湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった([[ピッグス湾事件]]または[[プラヤ・ヒロン侵攻事件|・ヒロン侵攻事件]])。こ事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や[[東側諸国]]との結びつきを強めるようになっ
 
1962年2月3日、アメリカの1[[ジョン・F・ケネディ|ジョン・F・ケネィ]]大統領はキーバとの輸出を全面禁止し、キーバの経済封鎖を行うと発表し。同年、キューバにおけるソ連の[[弾道ミサイル]]基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、[[核戦争]]の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの([[キューバ危機]])、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の[[機関投資家|機関化]]を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者である[[シャドー・バンキング・システム]]との対立が深まった。
[[ファイル:CheinBolivia1.jpg|thumb|[[ボリビア]]に於ける[[チェ・ゲバラ]](1967年)。]]
1962年2月3日、アメリカの[[ジョン・F・ケネディ]]大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の[[弾道ミサイル]]基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、[[核戦争]]の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの([[キューバ危機]])、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の[[機関投資家|機関化]]を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者である[[シャドー・バンキング・システム]]との対立が深まった。
 
1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは[[第三世界]][[非同盟]]外交に基づいて世界革命を推進し、[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]各地に軍事顧問団を派遣した。[[ベトナム戦争]]を戦う[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]や、[[セク・トゥーレ]]政権の[[ギニア]]、[[ベン・ベラ]]政権の[[アルジェリア]]などと関係を深め、[[コンゴ民主共和国]]や[[ボリビア]]には[[チェ・ゲバラ]]率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『[[ゲリラ戦争]]』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年の[[チリ]]に於ける[[サルバドール・アジェンデ]]政権成立のように[[平和革命]]路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。
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!備考
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| nowrap="nowrap" |{{0}}1月{{0}}1日
| nowrap="nowrap" |解放記念日
| nowrap="nowrap" |{{lang|es|Triunfo de la Revolución}}
|バティスタが1959年1月1日未明に[[亡命]]したことで、[[フィデル・カストロ]]の[[キューバ革命]]が達成されたことを記念する日。
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| nowrap="nowrap" |{{0}}5月{{0}}1日
| nowrap="nowrap" |[[メーデー]]
| nowrap="nowrap" |{{lang|es|Día de los trabajadores}}
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| nowrap="nowrap" |{{0}}7月26日
| nowrap="nowrap" |モンカダ兵営襲撃(革命9記念日)
| nowrap="nowrap" |{{lang|es|Asalto al cuartel Moncada}}
|1953年に、フィデル・カストロ率いる160名の兵士が、[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]にあるキューバ陸軍モンカダ兵営を襲撃した日。襲撃は完全に失敗したが、後に反政府組織「[[7月26日運動]]」の名称由来となったこともあり、現在ではフィデル・カストロ主導によるキューバ革命の始まりであると考えられている。通常は、他の2, 3日の[[祝日]]とともに祝われる。
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| nowrap="nowrap" |10月10日
| nowrap="nowrap" |独立戦争開始記念日
| nowrap="nowrap" |{{lang|es|Día de la Independencia}}
|1868年に、[[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]が自己所有の[[奴隷]]に自由を与え、スペイン植民地当局に対する独立戦争(十年戦争)を開始した日。
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| nowrap="nowrap" |12月25日
| nowrap="nowrap" |[[クリスマス]]
| nowrap="nowrap" |{{lang|es|Navidad}}
|キューバ革命後、クリスマスは[[休日]]をともなう祝日ではなくなった。しかし、1998年の[[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の訪問を受け、政府は再びクリスマス休暇を復活させた。
|}