「吉田松陰」の版間の差分

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安政5年([[1858年]])、幕府が無勅許で[[日米修好通商条約]]を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座[[間部詮勝]]が[[孝明天皇]]への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、[[大原重徳]]と参勤交代で伏見を通る[[毛利敬親]]を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし[[野村和作]]らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や[[木戸孝允|桂小五郎]]ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり[[草莽|草莽崛起論]]を唱えるようになる<ref>北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第13号379ページ</ref>。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
 
安政6年([[1859年]])、[[梅田雲浜]]が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した[[大高又次郎]]と[[平島武次郎]]が雲浜の門下生であった関係で、[[安政の大獄]]に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。[[評定所]]で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう<ref>北海道大学大学院文学研究科 研究論集 第13号380ページ</ref>。この結果、松陰に[[斬首]]が宣告され、安政6年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]](グレゴリオ暦[[1859年]][[11月21日]])、[[伝馬町牢屋敷]]にて執行された。[[享年]]30(まだ30歳(満29歳没)の若さであった
 
== ゆかりの地 ==