「荻野山中藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
荻野山中藩は[[小田原藩]][[大久保氏|大久保家]]の支藩である。[[天明]]3年([[1783年]])に[[駿河国]][[松長藩]]主・[[大久保教翅]]が陣屋が山中に移転したことで立藩した。この頃から山中藩では藩財政の窮乏化が進んでおり、教翅の子・[[大久保教孝|教孝]]は「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努めたが、効果は望めなかった。[[慶応]]3年(1867年)秋頃から冬にかけ関東では勤王の為と称し薩摩藩士ら中心による集団強盗が横行、愛甲地区で被害が多数出ていた 12月15日[[江戸]][[薩摩藩]]邸に集まった[[鯉渕四郎]]ら薩摩藩士中心の倒幕派浪士隊は藩主が[[甲府城]]の勤番のために留守であった山中陣屋を夜襲、焼き討ち。 その際即死3人、深手を負った2名の内当代官が3日後死去 更に12月16日早朝、集団は厚木川入村佐野家へ押し入り金品を強奪し津久井方面へ向かう 藩や領民に衝撃を与える
 
陣屋は焼失にもかかわらず、市内王子の福伝寺には遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。跡地には稲荷と石灯籠があるにすぎない。