「間人皇女」の版間の差分

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: 繫於金木 吾飼駒當無出兮 吾之駒至今何以為所獲
::間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との[[近親相姦]]の関係を説く[[吉永登]]のような見解もあり<ref>吉永登「間人皇女」7-10頁。</ref>、[[直木孝次郎]]らによって支持されているが、これに対しては[[曾倉岑]]・[[荒井秀規]]らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。
:: また、[[孝徳天皇]]が崩御したあと、間人皇女が一時的に天皇の役割を背負ったという説もある。『万葉集』に「[[中皇命]](「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説が[[荷田春満]]以来あり、[[土屋文明]]などによって広く支持されている。さらに「[[中皇命]]」の号をもって、母・斉明の崩後に葛城皇子(中大兄皇子)が即位する環境が整うまでの中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説が[[押部佳周]]・[[小林敏男 (歴史学者)|小林敏男]]らによって展開されているが、『万葉集』の註には[[斉明天皇]]作との旨が記されているなどの異伝も見られ、必ずしも確証があるわけではない。[[斉明天皇]]を[[中皇命]]とする説も[[澤瀉久孝|沢潟久孝]]をはじめ少なくない。なお、[[中皇命]]については中大兄([[天智天皇]])その人を指すのではないかとする[[東野治之]]や[[大平聡]]らの説も近年提出されている。
 
天智天皇4年2月25日(665年3月16日)に薨去し、斉明天皇陵である[[皇極天皇#陵墓|越智岡上陵]]に合葬された。