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== 中世の歴史 ==
[[ファイル:Gniezno Cathedral detail 02.jpg|right|thumb|350px|(1175年ごろ)軍事・宣教に来たプラハのアダルベルトを殺す古プロイセン人。]]
歴史文献で初めて古プロイセンが明確に言及されるのは、古プロイセンをキリスト教に教化する宣教中の[[997年]]に殺された[[プラハのアダルベルト]]に関連したものである。10世紀、西スラブ民族のキリスト教化後、[[977年]]ポーランドの[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]は[[プラハのアダルベルト|アーダルベルト]]司教を軍事とキリスト教化の布教目的でプロイセンに送り込むが、プルーセンの異教司祭により殺された<ref>"St. Adalbert", The Catholic Encyclopedia, New York: Robert Appleton Company, 1907</ref>。プルーセン人は、1015年、1147年、1161-1166年、そして13世紀中幾度ものポーランドによる侵略を撃退した。ポーランドの[[コンラト1世 (マゾフシェ公)]]は[[北方十字軍]]や[[ドブジン騎士団|ドブリン(ドブジン)騎士団]]([[:pl:Bracia dobrzyńscy]])を徴集し、何年もプロイセン侵略を試みたが敗北に終わった。教皇は[[十字軍]]をさらに準備した。ついにコンラト1世は、クルムラント(現: [[ヘウムノ]])領有権と引き換えに[[ドイツ騎士団]]を招聘した。古プロイセンはドブリン騎士団を追い払ったものの、13世紀、[[北方十字軍]]による数十年に渡る血まみれの征服活動の末、[[ドイツ騎士団]]に屈した。生き残った原住の古プロイセン人の多くが、現[[カリーニングラード州]]にあたるバルト海沿いのサンビア地方に移住させられた。[[1286年]]の大規模反乱を含む頻繁な反乱は、十字軍によって制圧された。
 
洗礼を受けた古プロイセン人はマクデブルク大司教の元で教養を身につけた。一方ドイツ人とオランダ人の移住者は原住民の古プロイセンを植民地化し、またポーランド人とリトアニア人は、それぞれ南部プロイセンと東部プロイセンに定着した。ドイツ人の地盤の中に、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク ]]に古プロイセン人の大きな孤立地帯が残され、そこで[[1525年]]にプロイセン公国が誕生するまでは[[ドイツ騎士団国]]の一部のままであった。