「下北交通大畑線」の版間の差分

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翌年に制定された改正[[鉄道敷設法]]においても別表第1号に「青森縣田名部ヨリ大畑ヲ經テ大間ニ至ル鐡道」として規定された。建設理由は下北半島の開発と対北海道連絡線であった<ref>函館市史 銭亀沢編 p106</ref>。明治の中頃(年月不明)に函館区長の常野正義が[[野辺地]]より大間まで鉄道を建設し、大間と函館を貨客船にて結び、東京 - 函館間の所要時間短縮を提唱し<ref>大間町史 p534</ref>、[[1923年]](大正12年)には函館にて海産商を営み、函館市議会議員を務めた阿部覚治が「大函館論(文化サークルの紅茶倶楽部·刊)」にて[[関門トンネル (山陽本線)]]が着手されたことを引き出し、函館 - 大間間を海底鉄道トンネルで結ぶ構想を発表している。船舶の技術の進歩を考えても津軽海峡の強風や高い波を克服し、確実な輸送をするのは難しい。もし[[関門海峡]]のように海底鉄道トンネルが掘れるならばそのような問題は解決できると指摘した<ref>青函トンネル事典海峡回廊 p14-17</ref><ref>わが街 はこだてタウン誌50年 p78-79</ref>。実際、津軽海峡は潮流が速く複雑で四季を通じて激しい気象や海象が起き、[[瀬戸内海]]、[[玄界灘]]に並ぶ日本の三大海難所であるが<ref>津軽海峡の天気とことわざ p9</ref>、しばらく着手されることはなかった。
 
この予定線が建設線に昇格するのは、[[大間町|大間]]にあった[[大日本帝国陸軍]][[津軽要塞]]の施設強化に伴うもので、1937年(昭和12年)に[[大間線]]第1期線として下北 - 大畑間が着工され、1939年(昭和14年)に開業した。この頃は、田名部の北に位置する[[大湊海軍航空隊|樺山飛行場]]の資材運搬に利用された。大間までの予定線([[大間線]]第2期線)も引き続いて建設が進められたが、[[太平洋戦争]]の戦局悪化にともなって1943年(昭和18年)12月に工事は中止された。

津軽海峡の対岸にあたる[[北海道]]の[[亀田半島]]においても要塞施設強化のため兵員や軍事物資輸送目的で[[戸井線]]が建設されていたが、これも未成のまま工事が中止されている。
 
戦後しばらくは、海産物や木材の輸送で活況を呈したが次第に減少し、1980年に[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]が成立すると第1次特定地方交通線に指定された。協議会では一時バス転換に傾いたものの、1984年になって[[南部縦貫|南部縦貫鉄道]]が、[[南部縦貫鉄道線|自社路線]](1997年休止、2002年廃止)と[[野辺地駅]]で接続する[[大湊線]]とセットでの引受を表明。これに対し地元のバス会社「下北バス」が経営地盤の防衛から引受けを表明し、一転して鉄道として存続することとなった。同じ青森県の[[弘南鉄道]]に1984年に引き継がれた[[弘南鉄道黒石線|黒石線]](1998年廃止)とともに、特定地方交通線が[[第三セクター]]企業ではなく、純民間資本の企業に引き継がれた希な例であったが、[[私鉄]]ではなくバス会社の鉄道引受としては唯一の例である。