「エリック・ハイデン」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Apresristia34+1 (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
||
25行目:
{{MedalGold|1980 レークプラシッド|10000m}}
{{MedalCompetition|[[世界オールラウンドスピードスケート選手権大会|世界オールラウンド選手権]]}}
{{MedalGold|1977 ヘーレンフェーン|
{{MedalGold|1978 ヨーテボリ|
{{MedalGold|1979 オスロ|
{{MedalSilver|1980 ヘーレンフェーン|
{{MedalCompetition|[[世界スプリントスピードスケート選手権大会|世界スプリント選手権]]}}
{{MedalGold|1977 アルクマール|総合}}
36行目:
}}
'''エリック・ハイデン'''('''Eric Arthur Heiden'''、[[1958年]][[6月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の
== プロフィール ==
[[ウィスコンシン州]][[マディソン (ウィスコンシン州)|マディソン]]の出身。ドイツ系アメリカ人。
また妹の[[ベス・ハイデン]]も女子3000mにて同大会で銅メダルを獲得し
スケート引退後は[[ウィスコンシン大学]]医学部を卒業、現在は整形外科医。
== 完全制覇までの道のり ==
=== 挫折から無敵の存在へ ===
ハイデンは幼少時
これを機にハイデンは、地元のクラブの女性コーチ[[ダイアン・ホルム]]([[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]スピードスケート1500m金メダリスト)に頼み込んで独自の超ハードな練習を徹底的に行い、驚異的な肉体を身につけた。太ももの太さは74センチに達していたという。それでも
しかし、結局
[[ファイル:Eric Heiden 1977.jpg|thumb|[[1977年]]]]
=== 史上唯一の完全制覇 ===
1980年の[[冬季オリンピック]]・[[1980年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッド大会]]は、ハイデンが全種目制覇を達成するかに全世界の注目が集まった。地元アメリカの選手であり、21歳という若さにもかかわらずスピードスケートの頂点に君臨していたこと、また日程的にも種目間にインターバルが十分取れるということもあり、ハイデン本人も完全制覇を意識していた。しかし実際には強力なライバルもおり、容易ではなかったのである。▼
[[ファイル:Eric Heiden at 2006 Winter Olympics 2006-02-11.jpg|thumb|
まず最初の種目は500mだが、この種目が一番不安視されていた。同走のソ連の[[エフゲニー・クリコフ]]は当時の世界記録保持者、しかもハイデンは不利なアウトスタート(当時の500mは[[2014年ソチオリンピック]]まで行われたようにイン・アウトを交互に滑るルールではなく、[[2018年平昌オリンピック]]から復活した完全な一発勝負形式となっていた)だったのである。さらに悪いことに、ハイデンは最初のスタートでフライングを犯してしまい、やり直しとなったスタートでクリコフの先行を許してしまう。クリコフのリードでレースは進み、ハイデンの夢は早くも打ち砕かれてしまうのかと思われた時、クリコフがカーブで大きくバランスを崩し、そのお陰でハイデンは逆転し金メダルを獲得することが出来た。クリコフは猛烈な追い上げで銀メダルとなったが、ミスがなければまずハイデンを破っていたと思われる。このように、完全制覇のスタートは運も味方にしてのものであった。▼
▲1980年の[[冬季オリンピック]]・[[1980年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッド大会]]は、ハイデン
続く5000mはハイデン自身、「体力的にもっともきつい」と言っていたレースである。結果は僅差の争いを一秒差で制することとなり、「ラッキーだったよ」とハイデンは述べた。▼
▲
インターバルを置いた1000mは五種目中唯一、なんの問題もなく制覇し三冠を達成した。▼
しかし続く1500mでハイデンは、快調に滑り余裕をもって優勝かと思われた矢先の600m付近で大きくバランスを崩し、転倒しかけるという場面が見られた。だが、強靭な太ももとボディバランスで持ち直し、4つ目の金メダルを獲得。安堵感からかインタビューでは感想を求められての第一声で「ワーオ!」とおどけて見せている。▼
▲しかし続く1500mで
そしてインターバルを置いてついに最終種目10000mに臨むことになるが、ここに一番の難関が待ち構えていた。前日に、ハイデンはアイスホッケーの[[氷上の奇跡|アメリカ対ソ連]]の試合を観戦していた。学生中心で臨んだアメリカが、最強と言われていたソ連チームを破った試合に熱狂し、興奮のあまり夜なかなか眠れなかったという<ref>ディスコでフィーバーしていたというの噂はデマであると本人が証言</ref>。おかげでハイデンは翌日スケート会場に遅れて到着し、コーチや関係者をやきもきさせた。
そんな中臨んだ最終種目10000mでは、またしても当時の世界記録保持者と同じ組で滑ることになる。その相手、ソ連の[[ビクター・ラスキン]]は個人の記録以上に、スケート大国の威信に懸けてハイデンの全種目制覇を阻まんと燃えていた。スタート直後から飛ばし、ハイデンのペースを狂わせる作戦に出たラスキンにハイデンは大きく取り残され、精神的にかなりのプレッシャーを課されることとなった。それでもコーチは構わずペースを守り続けるよう冷静に指示を出す。結局5000m付近でラスキンは失速し、逆にハイデンの独走となった。
しかし最終種目だけにこれまでの疲労の蓄積は並大抵ではなくしかも寝不足でもあり、プレッシャーをかけられ続けていたハイデンの方としても、周回を重ねるごとに体力は限界に近づき、もはや腰を曲げている状態だけでも耐えられなくなってきたという。最後は正に残りの気力を振り絞ってのフィニッシュとなった。その結果は、世界記録を大幅に更新しての金メダル獲得。空前絶後の完全制覇を達成し、当時アメリカと冷戦状態にあったソ連の新聞も「記録に残る勝利」としてハイデンの栄誉をたたえたのである。
=== 栄冠に輝いたその後 ===
正に全米の英雄となったハイデンではあるが、五輪後にあっさりとスケート競技から引退し、大学の医学部に戻ることを表明した。
▲[[ファイル:Eric Heiden at 2006 Winter Olympics 2006-02-11.jpg|thumb|left|[[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]]でのハイデン]]
▲正に全米の英雄となったハイデンではあるが、五輪後にあっさりとスケート競技から引退し、大学の医学部に戻ることを表明した。また殺到したコマーシャル出演の話を全て断り、「自分の金メダルを金儲けには利用したくない」と述べた。
ところが翌[[1981年]]、妹のベスが[[1980年]]の[[世界選手権自転車競技大会ロードレース1980|世界選手権・個人ロードレース]]で優勝を果たした影響を受け、セブンイレブンと契約を結んで、[[自転車競技]]のプロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手に転身。[[1985年]]、全米プロ自転車選手権ロードレース(現 [[フィラデルフィア・インターナショナル・チャンピオンシップ]])の初代優勝者となった。
81 ⟶ 86行目:
== エピソード ==
*インタビューで、金メダルをどうしているかと聞かれた時には「ベッドの下に突っ込んでいるよ」「結果は確かに良かったけど、そこに至る過程、いかに努力したかそしてベストを尽くしたことがもっと重要なんだよ」と述べた。
*1988年に全種目入賞を果たした[[橋本聖子]]も[[1992年アルベールビルオリンピック]]でハイデンからアドバイスを受け、1500mで銅メダルを獲得した(日本の女子選手初の冬季五輪メダル獲得
== 関連項目 ==
90 ⟶ 94行目:
* [[草野仁]](当時[[日本放送協会]]の[[アナウンサー|スポーツアナウンサー]]。ハイデンの5冠レースを全て実況した。)
* [[橋本聖子]](日本のスピードスケート選手。ハイデンのようなオールラウンド・スケーターをモットーとした。)
== 注釈 ==
<references />
== 外部リンク ==
* {{SportsReference|he/eric-heiden-1}}
* {{cycling archives|7560|エリック・ハイデン}}
{{オリンピックスピードスケート競技金メダリスト - 男子500m}}
{{オリンピックスピードスケート競技金メダリスト - 男子1000m}}
99 ⟶ 107行目:
{{オリンピックスピードスケート競技金メダリスト - 男子5000m}}
{{オリンピックスピードスケート競技金メダリスト - 男子10000m}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はいてん えりつく}}
109 ⟶ 118行目:
[[Category:アメリカ合衆国の整形外科医]]
[[Category:ウィスコンシン州マディソン出身の人物]]
[[Category:ドイツ系アメリカ人]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:存命人物]]
|