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と賞賛したことによる。もともとは[[称名念仏|念仏]]者・[[極楽|浄土]]願生者を指す語である。
 
在俗の篤信者の語意として使われるようになったのは、[[1753年]]に編纂された、[[石見国]][[邑智郡]]の浄泉寺([[島根県]][[邑南町]]市木)の[[浄土真宗]]([[大谷派]])の僧侶・[[仰誓]]([[履善]]の父)が編纂した『新聞妙好人伝』からである。以後、全国で布教し寄進を募り[[西本願寺]]教団の財政を立て直したことで知られる僧純の編集した『妙好人伝』五編(1842年・天保13、一編は『新聞妙好人伝』の再編)とつづき、[[江戸時代|江戸期]]から[[明治時代|明治]]初期にかけて何篇かの妙好人伝が編まれた。
 
妙好人を最初に取り上げた知識人は、禅の研究者として[[鈴木大拙]]であった。その後、思想家の[[柳宗悦]]が[[鳥取県]]を対象とした[[フィールドワーク]]を纏めて『妙好人 因幡の源左』を発表し、一般に妙好人という概念が広く知られる事となった。また、小説家の[[司馬遼太郎]]は、紀行文集『[[街道をゆく]]』「因幡・伯耆のみち」において妙好人に触れ、日常の瑣末のことがらにまで仏教的な悟りに似た境地にある一般人を指すと言い、また同時に歴史的存在であるとも述べている。