「ENIAC」の版間の差分
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ENIACは複雑なプログラムも組むことができ、ループ、分岐、サブルーチンが可能である。プログラミングは複雑な作業で、通常1週間ほどかかった。紙上でプログラムが完成したら、次に[[パッチパネル]]でスイッチ群やケーブルの配線を変更することでプログラムをENIACに設定する必要があり、それに数日かかる。そして設定ミスがないかを検証・デバッグするのに、ENIACの「シングルステップ」動作機能を活用する。
1997年、ENIACのプログラミングを担当していた6人の女性が{{仮リンク|ウーマン・イン・テクノロジー・インターナショナル|en|Women in Technology International|label=Women in Technology International}}(WITI)の殿堂入りを果たした<ref name="WITI" /><ref>{{Cite news|url= http://www.wired.com/culture/lifestyle/news/1997/05/3711 |title=Wired: Women Proto-Programmers Get Their Just Reward | date=1997-05-08}}</ref>。1946年当時の呼び名で言えば、
ENIACの設計は一種独特であり、決して他では採用されなかった。1943年に設計が完了しているため、その後間もなく発展した技術革新を採り入れておらず、特に[[プログラム内蔵方式|プログラム内蔵能力]]を欠いていた。エッカートとモークリーはより単純で強力な新設計を開始し、それが後に[[EDVAC]]と呼ばれるようになる。1944年、エッカートはデータとプログラムの両方を格納する記憶装置([[遅延記憶装置|水銀遅延線]])を説明する文書を書いた。ペンシルベニア大学ムーアスクール(工学部)のコンサルタントだったジョン・フォン・ノイマンは、[[プログラム内蔵方式]]が議論され構築されたミーティングに参加している。フォン・ノイマンは、そのミーティングでの議論をまとめたような内容の文書である、[[EDVACに関する報告書の第一草稿]](First Draft of a Report on the EDVAC)を書いた。同文書は学会の論文や書籍のような手続きを経て出版されたものではなく、(知られている限りでは)ノイマンによる手書きの草稿と、それを元にしたタイプライタによる原稿がある。後者はENIACの管理責任者だった[[ハーマン・ゴールドスタイン]]がそのコピーをいくつかの政府機関や教育機関に配布し、また当時の何人かの研究者(たとえばイギリスの[[モーリス・ウィルクス]])が何らかの機会を得て読んでいる。それにより各地で新世代の電子計算機を構築することへの関心が高まり、イギリスのケンブリッジ大学の[[EDSAC]]や[[アメリカ国立標準技術研究所|アメリカ国立標準局]]の[[SEAC]]などが生まれることになる。
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