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しかし、こういった長年の家相の鬼門を恐れる言い伝えは、すべて発祥する京都御所が基になっているが、[[京都御所]]の内部には[[鬼の間]]が存在していた。
[[鬼の間]](おにのま)とは、[[京都御所]]において[[仁寿殿]]の西、後涼殿の東にある[[清涼殿]](せいりょうでん)、南西隅の部屋であり、すなわち[[裏鬼門]]の位置にある。平安遷都([[延暦]]13年・[[794年]])時の内裏に[[大和絵]]師、[[飛鳥部常則]]が[[康保]]元年([[964年]]、この間に鬼を退治する[[白沢王]]像を描いたとされている。{{Sfn|小池|2015|p30}}壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王(はかたおう)といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、[[順徳天皇]]が著した[[禁秘抄]](きんぴしょう)([[御抄]])(みしょう)を解釈した{{Sfn|小池|2015|p30}}『[[禁秘抄]]講義』3巻上([[関根正直]]著)に記述されている。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。{{Sfn|小池|2015|p31}}なお、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李の将軍、「白澤王」としても記されている{{Sfn|小池|2015|p31}}、そう述べられている
 
京都御所、天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて、築地塀を凹ませていた、という解釈より、庶民に災いごとがふりかからないように、皇室が一手に凹みで受けとめて、御所内部の[[清涼殿]]、[[鬼の間]]に導いて鬼を切り倒し、世の安泰を願っていた、そう解釈したほうが自然であると{{Sfn|小池|2015|p31}}、の記述がある。現代でも皇居の間取りは公開されておらず、外から見ただけの塀の凹みだけを受けて鬼門除けに繋がったと考えた方が理に適う{{Sfn|小池|2015|p32}}、記述されている。現実、多くの家相学者、民俗学者の家相文献には、鬼の間の存在の記述はないと{{Sfn|小池|2015|p33}}、述べられている。[[猿ヶ辻]]に関しても前述とは別に御所を守護する[[日吉神社]]の神の使いが猿だったことから、「猿ヶ辻」と呼ばれる記述もある{{Sfn|小池|2015|p=27}}。昭和43年、[[皇居東御苑]]が一般公開されたが、[[京都御所]]は[[GHQ]]の管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開{{Sfn|小池|2015|p31}}されている、しかし現在でも[[鬼の間]]は一般公開されていないと、{{Sfn|小池|2015|p31}}述べている
 
もし、鬼門方位を除ける(鬼門除け)ことが、「家相の教え通り」{{Sfn|清家清|1989|p=46}}であるのであれば、一般庶民の住まいも南西に「鬼の間」をつくらなければ、家相は成立しないと述べている{{Sfn|小池|2015|p32}}。