「東丹国」の版間の差分

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長男で皇太子でありながら、契丹皇帝になれなかった倍はこれを恨み、耶律堯骨も兄が謀反を企てることを恐れ、兄弟の関係が緊張した。[[928年]]堯骨は[[遼東]]の東平郡(現在の[[遼寧省]][[遼陽市]])を契丹東京に昇格させ、東丹の都を天福城から遼陽城に移すよう倍に命じた。倍は臣従した[[渤海人]]らを連れて遼陽に移り、東丹は徐々に縮小され契丹による直接統治へと移行していったとみられる。
 
弟・堯骨による暗殺を恐れる倍は、[[医巫閭山]]に隠棲するが、[[930年]]密かに[[後唐]]の都・[[開封]]に亡命する。これにより東丹は事実上滅亡したとみられていたが、1990年代に、各地で[[耶律羽之]]などの墓誌が発見され、東丹の官が継承されていることが判明し、東丹の存続は明らかとなっている。
 
[[936年]]、[[後晋]]に[[燕雲十六州]]を割譲させた契丹皇帝は引き続き存続していた東丹の官制を縮小し、[[947年]]には国号を[[遼]]と改称する。これ以後も、遼に服属した渤海人は、主に遼の東京・遼陽に集住していたが、遷民の記録は史料次第に減少し10世紀末には見えなくなる。おそらく、遼が女真や高麗に攻め入ったころに、皇帝の権限強化をめざして東丹国の実権は皇帝などの中央権力に接収されたようである。