「クライナ・セルビア人共和国」の版間の差分

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「クライナ」の呼称は、16世紀に[[ハプスブルク君主国]]内のクロアチアとスラヴォニアの一部から分離され設置された「[[軍政国境地帯]]」に由来する。これは、[[オスマン帝国]]による拡張に対する防衛上の理由によるものであった。多くの[[クロアチア人]]、[[セルビア人]]、[[アルーマニア人|ヴラフ人]]が付近のオスマン帝国領の[[セルビア]]および[[ボスニア]]から移り住み、また守衛隊の[[ドイツ人]]の兵士もオスマン帝国との戦いのためにこの地に移った。オーストリア人はこの防衛線地帯を[[ウィーン]]の軍事司令部から支配し、同地を王領とはしなかった。地域の居住地を支援する幾らかの特別の権利が与えられたものの、不毛で、戦争によって疲弊した土地であった。[[1869年]]から[[1871年]]にかけて、この軍事支配地域は解体への動きが実現された。[[1876年]][[11月5日]]、この地域に住むセルビア人に、クロアチア領となることへ賛同させるため、議会(Sabor)は「クロアチア・スラヴォニア・ダルマチア3重王国は、国内に住むセルビア人およびヴラフ人を、クロアチア人と同等で対等であることを認める。」と厳かに宣言した。その後、1881年に軍政国境地帯は解体され、ハプスブルク帝国内のクロアチアの一部へと再編された。
 
[[画像ファイル:Militargrenze, Wojwodowena und Banat.jpg|300px|left|thumb|クライナの起源となった[[軍政国境地帯]]]]
その後の[[第一次世界大戦]]において、かつての軍政国境地帯は[[ユーゴスラビア王国]]の領土となり、そのほかのクロアチアおよびスラヴォニアのほとんどの地域と共に、同国の[[サヴァ州]]の一部とされた。[[戦間期]]において、クロアチア、スラヴォニアに住むセルビア人は、[[ボスニア・クライナ]]([[:en:Bosanska Krajina|Bosanska Krajina]])や西セルビアのセルビア人とともに、[[スヴェトザル・プリビチェヴィッチ]]([[:en:Svetozar Pribićević|Svetozar Pribićević]])の指導の下で独立民主党を結成した。新しいユーゴスラビア王国において、クロアチア人とセルビア人の間には同国の政治展望を巡って険しい緊張関係があり、クロアチアの自治を求める訴えは、彼らの指導者で議員の[[スティエパン・ラディッチ]]([[:en:Stjepan Radić|Stjepan Radić]])の暗殺と、セルビア人が支配する治安組織による弾圧によって最高潮に達した。
 
セルビア人は、[[1990年]]4月にクロアチア大統領となったフラニョ・トゥジマンの政治に反対した。これらのセルビア人は1990年8月に反抗蜂起し、[[丸太革命]]([[:en:Log Revolution|en]])と呼ばれた。道路をまたいで丸太のバリケードが南に向かって築かれ、クロアチアからの分離を物理的に示した。これによってクロアチアは、海岸部の[[ダルマチア]]が[[ザグレブ]]など他の地域から分断された。クロアチア憲法が[[1990年]]12月に可決され、同憲法ではセルビア人は[[イタリア人]]、[[ハンガリー人]]などと共に少数民族に指定された。新しく制定されたクロアチア憲法がユーゴスラビア連邦憲法に違反しているとして、これをもってクライナの分離独立を正当化する議論も存在した。この立場からみれば、クロアチアは依然としてユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部であった。しかしユーゴスラビア崩壊の兆しがいよいよ強まるにつれ、クロアチアの政治家たちはユーゴスラビアからの完全独立を目指すようになり、ユーゴスラビア憲法はクロアチアにおける法的な効力を失っていった。クロアチアのセルビア人政治家は議会を退席することによって抵抗の意を示した。
 
クロアチアのセルビア人は1990年7月に独自のセルビア人国家議会を設置し、クロアチアの独立に反対の姿勢を示した。彼らは、もしクロアチアがユーゴスラビアから分離することができるのなら、クライナはクロアチアから分離することができると考えた。クライナ南西部の[[クニン]]出身の歯科医であった[[ミラン・バビッチ]]([[:en:Milan Babić|Milan Babić]])は、クライナの大統領に選出された。抵抗するクロアチアのセルビア人は、クニンの警察長[[ミラン・マルティッチ]]([[:en:Milan Martić|Milan Martić]])の指導の下、複数の[[準軍事組織]]を結成した。
 
[[1990年]]8月、クロアチアにおけるセルビア人の「独立と自治」を問う住民投票がクライナで実施された。決定は完全にセルビア人のみに限定され、99.7%の賛成で採択された。クロアチア政府は当然、この決定を違法で無効なものと認定し、セルビア人はクロアチアの国土を解体する憲法上の権利を持たないとした。[[1990年]][[12月21日]]、バビッチの当局は、[[クライナ・セルビア人自治州]]([[:en:SAO Krajina|en]])の設置を発表した。[[1991年]][[3月16日]]、新たな住民投票が実施され、「クライナ・セルビア人自治州をセルビア共和国と併合し、セルビア、モンテネグロおよびそのほかのユーゴスラビアを維持したい国と共にユーゴスラビアの一部に留まることに対する賛否」を問うた。99.8%がこれに賛成票を投じて投票は可決された。クライナ議会はこれを受けて「クライナ・セルビア人自治州は憲法上の不可分のセルビア共和国の一部である」と宣言した<ref>[http://www.un.org/icty/martic/trialc/judgement/mar-tcjud070612e.pdf PROSECUTOR v. MILAN MARTIĆ JUDGEMENT (pg. 46)]</ref>。[[1991年]][[4月1日]]、議会はクロアチアからの分離を宣言した。自治州の外にあるセルビア人が多数派を占める地区でも、自身がクライナの一部に加わり、[[ザグレブ]]の政府への税金の支払いを停止すると発表した。自治州は、独自の通貨、軍、郵便サービスを構築しはじめた。
[[1992年]]12月30日に[[クロアチアの地域区分|クロアチアの郡]]が設置された際、クロアチア政府はこのほかに2つのセルビア人の自治地域(''kotar'')をクライナ地域に設定した。しかしながら、これはクライナ側が求めていた自治の水準に達しておらず、現時点においてクライナは事実上の独立国であるとして、クライナのセルビア人側はこれを既に遅すぎると判断した。
 
[[画像ファイル:Former Yugoslavia wartime.png|300px|thumb|right|War in former Yugoslavia]]
 
国連保護軍は停戦を維持するためにクライナ地域に広く展開したが、軽武装と多くの制約が課せられ、実際には停戦監視軍の役割を大きく超えることはなかった。保護軍は避難民のクライナへの帰還の安全を保障することは全くできていなかった。それどころか、実際にはクライナ・セルビア人共和国では、セルビア人武装勢力が実効力を持ち、避難民の帰還を不可能としていた。彼らは、クライナにおいてクロアチア人の村落や文化的・宗教的建築物を破壊し、クライナ地域に存在したクロアチア色を一掃するための活動を推し進めていた<ref name="Tanner: Croatia">Tanner, Marcus (1997) ''Croatia: a nation forged in war''</ref>。クライナ・セルビア人共和国の政治のトップにあったミラン・バビッチは後に、この政策を推進したのは[[ベオグラード]]の政府で、セルビアから送り込まれた秘密警察による、つまり究極的にはミロシェヴィッチによるものであったと証言している<ref name="Babic testification">[http://www.iwpr.net/?p=tri&s=f&o=164710&apc_state=henitri200407 Babic testifies against Milosevic]</ref>。ユーゴスラビア人民軍が「平和維持のため」という名目で駐留しながら実際には全面的にクライナ・セルビア人勢力の側に立っていたことからも、ベオグラードの意向がクライナにおいて強く反映されていたことが理解できる。ミロシェヴィッチはこの主張を否定しており、バビッチの発言を保身目的とする主張もある。
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