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→‎刀の神聖視と習俗と刀狩: 高橋昌明『武士の日本史』出典貼付し加筆
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== 刀の神聖視と習俗と刀狩 ==
刀は、神聖視されて神社の神体となったり信仰の対象ともなった。一般的な通念と違い、騎馬上で刀や槍を振るうことは無く、騎馬白兵戦は無かった{{Sfn|鈴木|2000|pp=20-54}}。14世紀に一時騎馬での刀戦が行われたが馬上では難しく馬も傷つきやすいので、すぐに馬から降りて戦うようになった。戦傷も矢疵がほとんどで中心は矢戦での遠距離戦だった。首を取るための近接戦闘の場合に刀戦となり、これが、日本の合戦で白兵戦中心だとのイメージとして、伝わった<ref>高橋昌明『武士の日本史』2018年、p.135-137<岩波新書></ref>。しかし、前線でもあくまで騎馬弓兵が中心で刀は本来戦闘での主役ではなかった。だが早くから武士にとって刀は武の象徴とされ、信長、秀吉、家康も戦力や現実の使用を超えて、名刀を集めていた。後述の500万本もの刀が太平洋戦争後に存在したことは、刀が精神性を帯びたもので単なる武器で無かったことを表す{{Sfn|鈴木|2000|pp=20-54}}。
 
そして16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを「刀指」と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では「おとな百姓」の家は、宮崎などでは村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の「小百姓」に任せて、たえず戦争に参加し[[落ち武者狩り]]も行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている{{Sfn|藤木|2005|pp=25-38}}。フロイスは『日本史』で、文禄2年(1593年)の九州の豊臣政権による刀狩の記事で「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者がある年齢に達すると」大小の刀を帯刀し刀と脇差と呼び重んじていて、取り上げられるのを悲しんだ、と記述している<ref>{{Cite book|和書|author=ルイス・フロイス|translator=松田毅一;川崎桃太|title=完訳フロイス日本史|volume=12|publisher=中央公論新社|pages=182}}</ref>。また中世や近世で、農民の腰の指物は不可侵で、中世以後16世紀や17世紀の村の争いでも相手の脇差を奪うことは重大で犯罪とされた。中世以来、刀は農民にとって武装権とともに成人男性の人格と名誉の象徴で、刀狩はそれを奪うということで、大きな問題だった{{Sfn|藤木|2005|pp=25-38}}。