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「平」という名称の由来は諸説あるが<ref>「佐野本系図」や「平家勘文録」『続群書類従』(遊戯部所収)では「高見王の太子高望王の時、寛平元年十二月十三日に民部卿宗章の朝臣、帝皇をかたぶけんとせし時、祖王の[[宣旨]]を被りて、宗章を追罰せし故に帝王御感ありて従二位上総の介に任ず、朝敵を平らげたる故に平の姓を賜る」という中世の伝承があり「高望王の時に朝敵を討ち平らげたため「平」の姓を賜った」との説がある。しかし、高望王が朝敵を平らげる以前に平姓の賜姓が行われており、この説が事実に反し誤りであるということは言うまでも無い。</ref>、有力な説は[[太田亮]]が唱えて藤木邦彦・[[佐伯有清]]らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖である[[桓武天皇]]が建設した[[平安京]]にちなんで「平([[和訓]]:多比良)」と名づけたとするものである。太田亮『姓氏家系大辞典』では、「其の名称は、平安京(京都市)の本訓タヒラより起る。蓋し桓武帝、此の都を建てられしにより、其の子孫、此の氏を賜ひしならん。」と述べられている。また、「桓武平氏の誕生」(林陸朗、『日本中世政治社会の研究』所収)において、「一世(親王代)、二世(孫王)の賜姓は源朝臣、三世王の賜姓の場合は平朝臣という区別があったように思われる」と述べている。しかし、第五十四代仁明天皇、第五十五代文徳天皇の曾孫王の世代にはあてはまるが、第五十八代光孝天皇の曾孫王の世代ではあてはまらない。そのために、平安京遷都後の桓武天皇の孫王の高棟王が、「平」姓が賜姓されたように、平安遷都後の一時期、[[天長]]年間から[[仁和]]年間(824年-889年)まで変則的に与えられたのではないかという説もある<ref>『天皇家と源氏』(奥富敬之)</ref>。
 
=== 平氏の拠点について ===
「東国の源氏、西国の平氏」という俗説があるが、高望王流桓武平氏の始まりの地である[[東国]]は当然のことながら武家平氏の盤踞地であった。すなわち坂東平氏の一族がその後中央([[朝廷]])に勢力を伸ばし、[[西国]]にも平氏勢力が広がったとするのが適当である。武家平氏としては例えばその祖である[[上総国|上総]]介の[[平高望]]や、東国に独立政権を樹立しようとして失敗した[[下総国|下総]]の[[平将門]]、将門を倒した[[常陸国|常陸]]の[[平貞盛]]などが良く知られるが、時代が下って[[平氏政権]]で台頭した平家([[平清盛]]の家)を出した伊勢平氏も、貞盛の四男[[平維衡|維衡]]の子孫が[[伊勢国|伊勢]]に移り住んだものであり、これを倒した[[源頼朝]]を支えた[[鎌倉幕府]]の[[執権]]北条氏や[[坂東八平氏]]も同じく[[坂東]]に土着した高望王流桓武平氏の末裔であった<ref>ただし、北条氏や坂東八平氏については、平氏とは無縁の氏族が後世になって仮冒したのではないかといわれている(太田亮『姓氏家系大辞典 第二巻』「平」の項、[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM 桓武平氏を称する氏族について])</ref>。