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[[1947年]][[2月27日]]、台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧するという[[二・二八事件]]が起きた。その後、蒋介石は台湾全土に[[戒厳令]]を敷き、以降[[白色テロ (台湾)|白色テロ]]による支配を行うこととなる。
 
[[1948年]]に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け、1949年に辞任した。[[中華民国副総統|副総統]]だった[[李宗仁]]が総統代理となり、同年[[4月1日]]に共産党との和平交渉開始して同年4月に首都・南京から[[張治中北京|北平(北京)]]を代表とするに派遣して{{仮リンク|北平談|zh|北和谈}}を行い、交渉団が最終案である{{仮リンク|国内和平協定|zh|國內和平協定}}を持ち帰ってきた。しかし、20日に国民党は署名を拒否す電報を共産党に打って交渉は決裂し、3日後の23日には{{仮リンク|渡江戦役|zh|渡江战役}}で[[人民解放軍]]によって首都・南京は陥落して[[太平天国天王府跡|総統府]]調印占領されなかてしまった。
 
=== 台湾へ ===
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1949年[[10月1日]]国民党政府毛沢東[[華人民共和国]]を建共産党に敗北し、一方の蒋介石は首都・南京を脱出し、重慶などを経て、12月に[[成都市|成都]]から、息子の蒋経国とともに飛び立ち[[台湾島]]の[[台北市|台北]]に遷都することになる(台北は臨時首都)。アメリカのトルーマン政権は蒋介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。
 
1950年1月、トルーマン大統領は台湾への不介入声明を発表し<ref>{{cite web|title=Harry S Truman, “Statement on Formosa,” January 5, 1950|url=http://china.usc.edu/harry-s-truman-%E2%80%9Cstatement-formosa%E2%80%9D-january-5-1950|publisher=[[南カリフォルニア大学]]|date=February 25, 2014|accessdate=2017-05-10}}</ref>、アチソン国務長官もまたアメリカの西太平洋防衛ラインから台湾を除外した。しかし、この頃になると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったとの批判が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、蒋介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。