「オヤケアカハチ」の版間の差分

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オヤケアカハチの生誕地は[[波照間島]]で、幼少の頃から豪傑としての頭角を表していたという話があるが、不詳。波照間には生誕記念碑<ref>[https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1132549-d8149610-r550165736-Oyake_Akahachi_Monument-Hateruma_jima_Taketomi_cho_Yaeyama_gun_Okinawa_Prefectu.html 「アカハチ誕生の地」「八重山の英傑 オヤケアカハチの生まれた屋敷跡」]</ref>がある。
 
[[琉球王国|琉球]]側の歴史資料<ref>「[[球陽]]」「[[蔡鐸本 中山世譜]]」「[[中山世鑑]]」</ref>上には大浜の一[[豪族]]として登場している。曰く、「妻は石垣村の[[長田大主]](なあた うふしゅ)の妹の古市(古乙姥[くいつば])。オヤケアカハチは[[八重山列島|八重山]]の首領として島民の広範な支持<ref> 『長榮姓家譜大宗』「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」</ref>を背景に、[[琉球王国|琉球國]]への[[朝貢]]を2-3年断ち、さらには我が[[臣民]]である[[宮古列島|宮古]]を攻めたため、[[1500年]]2月13日<ref> 『[[球陽]]』「本年二月初二日、那覇開船し、八重山に赴き、赤蜂等を征伐す。大翁主大いに喜び、即ち小船に乗り、海に出でて迎接す。十三日、引きて八重山石垣の境に至る。大里等上岸す。」</ref>に琉球軍の軍船大小100艘、琉球兵3,000人を送り込み、これを討ち取った。」とある。 これが'''[[オヤケアカハチの乱]]'''である。
 
八重山・宮古に現存する諸史料を紐解くと、元来の[[宮古列島|宮古]]・[[八重山列島|八重山]]の両[[先島諸島|先島]]は琉球に属さない大平山(タイビンサン)という[[連合国|連合]]であったことが伺える。
 
代々宮古の首領一族である空広(ソラビー。いわゆる[[仲宗根豊見親]]/なかそね とぅゆみゃ)が15世紀に入ってから琉球國の中山([[第二尚氏]])王府に恭順して琉球の[[朝貢国]]となり、さらには八重山にも同様の主従を求めてきた。 

それに対抗したオヤケアカハチ率いる八重山という構図である。
 
[[忠導氏家譜正統]]、[[長榮姓家譜大宗]]、[[八重山島年来記]]といった宮古・八重山に残る諸史料に共通して記されているのは、アカハチに全島民が同心し、厚い信頼を得ていたとあり、前述の「オヤケアカハチの乱」では男性島民だけにとどまらず、女性島民も沿岸に立ち呪詛によって琉球軍の侵攻に対抗したと記録されている。