「乃木希典」の版間の差分
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などが発表された。特に、司馬遼太郎の主張に対する反論として、桑原嶽{{Efn|桑原嶽は、[[1919年]](大正8年) - [[2004年]](平成16年)<ref name="桑原嶽">{{Harvnb|桑原|2019|p=|pp=|loc=位置No. 3806/3813, 著者紹介}}</ref>。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]52期、陸軍少佐、陸将補<ref name="桑原嶽" />。退官後に中央乃木会事務局長<ref name="桑原嶽" />。}}『名将 乃木希典(第五版)』(中央乃木会、2005年)および[[別宮暖朗]]『旅順攻防戦の真実』(PHP文庫、2006年)があり、以下のように述べて乃木を擁護している。
# 司馬が乃木を批判するために引用したヴォーバンの『攻囲論』は、日露戦争当時既に200年を経過した理論であったため、これに従わなかったことをもって乃木を批判することは出来ない。乃木は、かえって当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であった{{Sfn|別宮|2006|p=93}}{{Sfn|別宮|2006|p=346}}
# 日露戦争当時、塹壕を突破して要塞を陥落させる方法は、ある程度の犠牲を計算に入れた、歩兵による突撃以外に方法がなく、有効な戦術が考案されたのは第一次世界大戦中期であるから、後世の観点から乃木を批判すべきではない{{Sfn|別宮|2006|p=104以下}}
# 乃木率いる第3軍の司令部があまりに後方に設置されていたのと批判は当たらない。戦闘指令所が置かれた団山子東北方高地は、前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmであり、作戦中は第3軍はそこで指揮を執っている。これは敵砲兵の有効射程内であり、戦況を手に取るように見える距離である。そのような距離であったから、攻撃中止の判断も迅速に行うことができた{{Sfn|桑原|2005|p=117}}
# 旅順は全周囲を防御した要塞でありどの方向も同程度の防御力を有している。203高地のある西北方面が手薄で東北方面が強固であったという事実はない。また第3軍に大本営より手渡されていた地図には旅順要塞の堡塁配置などに誤りがあり(例えば203高地などの前進陣地が書かれていない。東北方面の東鶏冠山などの保塁が臨時築城の野戦陣地となっているなど)日本軍全体で要塞の規模を把握していなかった。敵陣地の規模が不明な以上、攻略地点を自軍に有利な東北方面にする(鉄道や道路があり部隊展開に有利。西北方面はそれがなく準備に時間を要しないと不利)のは当たり前の決断と言える{{Sfn|長南|2012|p=31-32}}。
# 要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって乃木を批判することはできない。実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要している{{Sfn|桑原|2005|p=154}}{{Sfn|別宮|2006|p=177}}{{Sfn|別宮|2006|p=194以下}}{{Sfn|別宮|2006|p=214以下}}。仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられなかった{{Sfn|桑原|2005|p=137}}
# 旅順要塞に対して抑えの兵を残置し、乃木率いる第3軍は要塞を無視して北上することはできなかった。抑えの兵が不足していたからである。また、残置すべき兵力は4万ほどになると思われるから、たとえ第3軍が北上しても奉天会戦において活躍することはできなかった{{Sfn|別宮|2006|p=132以下}}{{Sfn|学習研究社|1991|p=101|ps=([[桑田悦]]執筆部分も同旨)}}
# 大山巌が児玉源太郎に「第三軍の指揮権移譲に関する書簡」を与えた、ということは、児玉に随行して旅順に赴いた[[満州軍 (日本軍)|満州軍]]参謀・[[田中国重]] 騎兵少佐(のち陸軍大将)の回想に出てくるのみ<ref name=":1">{{Harvnb|桑原|2019|p=|pp=|loc=位置No. 3180/3212, 第七章 伊地知幸介論 - 「第三軍の指揮権移譲に関する書簡」の真実とは}}</ref>。田中はその書簡の中身を見ていず、児玉は乃木にその書簡を見せていないため、当事者である大山と児玉以外に見た者が存在しない<ref name=":1" />。桑原嶽は、軍司令官は天皇が任命した[[親任官#親補職|親補職]]であり、満州軍総参謀長の大山であっても、第三軍司令官の乃木から指揮権を取り上げる権限がないことを指摘し、「大山が児玉に指揮権を与えた書簡を書いたなどということは、軍事上の常識からもありえず、巷間の俗説として一笑に付してもよいのである。」と述べている<ref name=":1" />。<small>なお、明治37年11月29日午後に、大山(総司令官)から児玉(総参謀長)へ宛てた訓令が、[[陸軍省]]『明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史(下)』([[原書房]]〈明治百年史叢書〉、1966年)に次のように収録されている<ref name=":3">{{Harvnb|陸軍省|1966|p=|pp=1445-1449|loc=明治三十七年 - 自七月 至十二月 - 十二月七日 旅順総攻撃再興と二〇三高地の占領}}</ref>。「総参謀長へ/十一月廿九日午後/総司令官より/訓令」として、「本訓令は之を実施するに至らすして止む、十二月十三日総参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と注記し、「総参謀長派遣に関する訓令/一、貴官を第三軍に派遣す/二、余は第三軍の攻撃指導に関し要すれは満洲軍総司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す/三、貴官は明治三十七年十一月廿九日[[煙台市|煙台]]を出発すへし/(終り)」(原文は旧字カタカナ)<ref name=":3" />
# 児玉源太郎が第3軍に与えた指示は予備の重砲の配置変換であり、司馬が作品で描いているような28センチ榴弾砲の陣地変換と目標を203高地にするなどのことは行われていない。それどころか既に28センチ榴弾砲は全砲が203高地を砲撃していたし同士討ち覚悟の連続射撃も攻城砲兵司令部の判断で実施されている{{Sfn|桑原|2005|p=265以下}}。203高地攻防戦は児玉の到着前に山頂の争奪戦の段階となっており、再奪取は時間の問題だった。また児玉自身、作戦立案を第3軍参謀に行わせており、それを承認した上で攻撃を開始しており、彼自身の立案だった訳でもない{{Sfn|長南|2012|p=56-57}}
別宮暖朗は、乃木率いる第3軍が、第1回総攻撃による被害が大きかったことを受けて、第2回総攻撃以降は突撃壕を掘り進めて味方の損害を押さえる戦術に転換していることを評価すべきと主張する{{Sfn|別宮|2006|p=181}}{{Sfn|別宮|2006|p=328以下}}{{Sfn|別宮|2006|p=341以下}}。この戦術は、第一次世界大戦においてロシア軍の[[アレクセイ・ブルシーロフ]]が実行したものであるが、それは第一次世界大戦の開戦後1年半ほど経過した後のことであり、それ以前の欧州各国陸軍も第1回総攻撃と同様の方法を採っていたのであるから、日露戦争当時にこの戦術を採用した乃木は評価されるべきである、という主張である{{Sfn|別宮|2006|p=99}}{{Sfn|別宮|2006|p=110}}。
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