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ENIACは複雑なプログラムも組むことができ、ループ、分岐、サブルーチンが可能である。プログラミングは複雑な作業で、通常1週間ほどかかった。紙上でプログラムが完成したら、次に[[パッチパネル]]でスイッチ群やケーブルの配線を変更することでプログラムをENIACに設定する必要があり、それに数日かかる。そして設定ミスがないかを検証・デバッグするのに、ENIACの「シングルステップ」動作機能を活用する。
 
1997年、ENIACのプログラミングを担当していた6人の女性が{{仮リンク|[[ウーマン・イン・テクノロジー・インターナショナル|en|Women in Technology International|label=Women in Technology International}}]](WITI)の殿堂入りを果たした<ref name="WITI" /><ref>{{Cite news|url= http://www.wired.com/culture/lifestyle/news/1997/05/3711 |title=Wired: Women Proto-Programmers Get Their Just Reward | date=1997-05-08}}</ref>。1946年当時の呼び名で言えば、[[キャスリーン・アントネッリ|キー・マクナルティ]]、[[ジーン・バーティク|ベティ・ジェニングス]]、[[ベティ・ホルバートン|ベティ・スナイダー]]、[[マーリン・メルツァー|マーリン・ウェスコフ]]、[[フランシス・スペンス|フラン・バイラス]]、[[ルース・タイテルバウム|ルース・リターマン]]の6人である<ref>{{Cite web|url= http://eniacprogrammers.org/ |title=ENIAC Programmers Project |publisher=Eniacprogrammers.org |accessdate=2010-01-27}}</ref><ref>{{Cite web|url= http://abcnews.go.com/Technology/story?id=3951187&page=1 |title= ABC News: First Computer Programmers Inspire Documentary |accessdate=2013-02-22}}</ref>。{{仮リンク|ジェニファー・S・ライト|en|Jennifer S. Light}}のエッセイ "When Computers Were Women" では、計算機科学史で女性の果たした役割が軽視されてきたことの概略とENIACでの女性の果たした役割について書かれている<ref>Light, Jennifer S. "When Computers Were Women." Technology and Culture 40.3 (1999) 455-483</ref>。また、LeAnn Erickson による2010年のドキュメンタリー映画でもENIACのプログラマ達が果たした役割を描いている<ref>{{Cite news| last = Gumbrecht| first = Jamie | title = Rediscovering WWII's female 'computers' | date = February 2011 | publisher = CNN | url= http://edition.cnn.com/2011/TECH/innovation/02/08/women.rosies.math/# | accessdate = 2011-02-15}}</ref>。
 
ENIACの設計は一種独特であり、決して他では採用されなかった。1943年に設計が完了しているため、その後間もなく発展した技術革新を採り入れておらず、特に[[プログラム内蔵方式|プログラム内蔵能力]]を欠いていた。エッカートとモークリーはより単純で強力な新設計を開始し、それが後に[[EDVAC]]と呼ばれるようになる。1944年、エッカートはデータとプログラムの両方を格納する記憶装置([[遅延記憶装置|水銀遅延線]])を説明する文書を書いた。ペンシルベニア大学ムーアスクール(工学部)のコンサルタントだったジョン・フォン・ノイマンは、[[プログラム内蔵方式]]が議論され構築されたミーティングに参加している。フォン・ノイマンは、そのミーティングでの議論をまとめたような内容の文書である、[[EDVACに関する報告書の第一草稿]](First Draft of a Report on the EDVAC)を書いた。同文書は学会の論文や書籍のような手続きを経て出版されたものではなく、(知られている限りでは)ノイマンによる手書きの草稿と、それを元にしたタイプライタによる原稿がある。後者はENIACの管理責任者だった[[ハーマン・ゴールドスタイン]]がそのコピーをいくつかの政府機関や教育機関に配布し、また当時の何人かの研究者(たとえばイギリスの[[モーリス・ウィルクス]])が何らかの機会を得て読んでいる。それにより各地で新世代の電子計算機を構築することへの関心が高まり、イギリスのケンブリッジ大学の[[EDSAC]]や[[アメリカ国立標準技術研究所|アメリカ国立標準局]]の[[SEAC]]などが生まれることになる。
 
1948年以降、ENIACにもいくつかの改良が施され、例えば簡単なリードオンリーのプログラム格納機構が加えられた<ref>{{Cite web|url= http://ftp.arl.mil/~mike/comphist/48eniac-coding/ |title=A Logical Coding System Applied to the ENIAC |publisher=Ftp.arl.mil |date=1948-09-29 |accessdate=2010-01-27}}</ref>。これは本来[[数表]]を設定するファンクションテーブルをプログラムを格納する[[Read Only Memory|ROM]]に流用したもので、ENIACの特許にも含まれているアイデアである。また、弾道研究所の{{仮リンク|リチャード・クリッピンガー|de|Richard Clippinger}}も独自に提案していた。フォン・ノイマンの助力を得てクリッピンガーは実装すべき命令セットを考えた。クリッピンガーは3アドレス方式を考えていたが、フォン・ノイマンはより実装が簡単な1アドレス方式を提案。6番のアキュムレータの3桁をプログラムカウンタとして使い、15番のアキュムレータを主アキュムレータとし、8番のアキュムレータをファンクションテーブルからデータを読み込む際のアドレスポインタとして使用する。他のアキュムレータの大部分(1-5、7、9-14、17-19)はデータメモリとして使用する。ENIACでのプログラム内蔵方式のプログラミングはベティ・ジェニングス、クリッピンガー、{{仮リンク|[[アデル・ゴールドスタイン|en|Adele Goldstine}}]](ハーマン・ゴールドスタインの妻)が行った。1948年9月16日、[[プログラム内蔵方式]]でのENIACが初公開されている。このときのプログラムはフォン・ノイマンが基本設計しアデル・ゴールドスタインがプログラミングした。この改造によってENIACの性能は6分の1となり並行計算能力も失われたが、何日もかかっていたプログラミング作業が数時間に短縮され、性能低下を考慮しても価値のある改造だった。また、計算は電子式だが入出力はパンチカードによる電気機械式であり、この性能差の影響も分析した。それによると、実際の問題は例外なく{{仮リンク|I/Oバウンド|en|I/O bound}}(入出力が性能のボトルネックとなる状態)であり、本来の並行計算能力を使わない場合でもそれは変わらなかった。プログラム内蔵方式に改造して性能が低下してもI/Oバウンド状態は変わっていない。1952年、高速シフタが追加され、シフト性能が5倍になった。1953年7月、100ワードの[[磁気コアメモリ]]が追加され、数値表現を[[3増し符号]]の[[二進化十進表現]]とした。この拡張メモリをサポートするため、新たなファンクションテーブル・セレクター、メモリアドレス・セレクター、パルス成形回路が加えられ、プログラミング機構にも3つの新命令が加えられた。
 
== 他の初期のコンピュータとの比較 ==