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[[幕末]]の[[1860年]](万延元年)に[[筑後国]][[久留米藩]]士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。明治9年18歳で[[江崎済]]の黒木塾にて学ぶ。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。
 
剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に[[沢論澤諭]]の著作を読んで傾倒し、上京して[[1884年]](明治17年)、[[慶應義塾]]を卒業。初め海軍[[天文台]]に勤め、外国資本の[[モリスン商会]]などを経て、[[1896年]](明治29年) [[三井銀行]]に入社した。[[1898年]](明治31年)、[[中上川彦次郎]]の依頼で三井呉服店に入り、[[高橋義雄 (茶人)|高橋義雄]]と共に改革を進めた。
 
[[1904年]](明治37年)、株式会社三越呉服店が設立され、[[益田孝]]が代表発起人、日比が専務取締役に就任。このときに「[[百貨店|デパートメントストア]]宣言」を行った。[[巌谷小波]]、[[新渡戸稲造]]、[[黒田清輝]]、[[森鴎外]]など著名文化人による流行研究会「流行会」を組織。