「ドイツ民主共和国」の版間の差分

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==== 民主化後の選挙 ====
{{main|1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙}}
1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して[[民主社会党 (ドイツ)|社会主義統一党/民主社会党]] (SED/PDS) と改称した。そして、1990年[[3月18日]]には東ドイツ国家史上初、かつ最後となる[[自由選挙]]が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、[[1946年]]に社会主義統一党へと事実上強制吸収された東側の[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]元党員も加わる形で{{仮リンク|東ドイツ社会民主党|de|Sozialdemokratische Partei in der DDR}}として再建され、[[1972年]]に[[東西ドイツ基本条約]]を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていた[[ヴィリー・ブラント]]元首相などが西ドイツの社会民主党から支援に駆けつけた。また、[[民主化]]運動の中心勢力も[[同盟90]]など独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。
 
選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首[[ヘルムート・コール]]は精力的に東ドイツ全土を遊説し、[[東ドイツマルク]]から[[ドイツマルク|西ドイツマルク]]への交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首の[[ロタール・デメジエール]]が首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。