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[[File:Five-storied Pagoda - Kan'ei-ji.jpg|240px|thumb|旧寛永寺五重塔(重要文化財)]]
[[ファイル:100 views edo 011.jpg|サムネイル|[[広重]]『[[名所江戸百景]]』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。]]
'''寛永寺'''(かんえいじ)は、[[東京都]][[台東区]][[上野桜木]]一丁目にある[[天台宗]]関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)<ref name="TNM2011">{{Cite web |url=https://www.tnm.jp/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php?file=/exhibition/201110/uid000067_32303131313031326B616E65696A692E706466 |title=東叡山寛永寺 |publisher=[[東京国立博物館]] |accessdate=2019-10-28}}</ref>。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は[[徳川家光]]、開山(初代住職)は[[天海]]、本尊は[[薬師如来]]である。
 
徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代[[征夷大将軍|将軍]]15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは[[皇族]]が歴代住職を務め、日光山、[[比叡山]]をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、[[慶応]]4年([[1868年]])の[[上野戦争]]で主要伽藍を焼失した。
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==歴史==
=== 創建と伽藍整備 ===
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、[[増上寺]]は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は[[天海]]を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]・[[徳川家光|家光]]の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海によって、江戸城の鬼門の方角を守護する寺院として創建された<ref name="TNM2011" />。

天海は江戸の天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、現在の[[上野恩賜公園|上野公園]]の地を天海に与えた。当時この地には伊勢[[津藩]]主・[[藤堂高虎]]、[[弘前藩]]主・[[津軽信枚]]、越後[[村上藩]]主・[[堀直寄]]の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、[[寛永]]2年([[1625年]])、3代将軍徳川家光の時に今の[[東京国立博物館]]の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。

創建当時の年号をとって寺号を「'''寛永寺'''」とすることを許され、京の都の鬼門(北東)を守る[[比叡山]]に対してならい、「'''東の比叡山'''」という意味で山号を「'''東叡山'''」とした<ref name="TNM2011" />
 
その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。このようにして徐々に[[伽藍]]の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った[[元禄]]11年([[1698年]])、5代将軍[[徳川綱吉]]の時である<ref>それまでの約70年間は本坊が根本中堂の代わりをしていた。</ref>。根本中堂は元禄10年7月1日に[[柳沢吉保]]が惣奉行を拝命したことにより開始され、元禄11年8月11日に[[上棟式]]が行われ落成した。