「日興」の版間の差分

m (略歴よりも実質的には年譜なので、表記も「年譜」と改めた。)
 
=== 日蓮に入門 ===
四十九院で初等教育を修め、さらに須津荘で漢学や書道も学んだ日興は、その後、四十九院と密接な関係にあった天台宗寺院の実相寺(富士市岩本、現在は日蓮宗寺院)に登り、修学に励んだ。実相寺は当時、一切経を蔵する大寺院であった。伝承によれば、正嘉元年(1257年)8月、鎌倉の大地震に遭遇した日蓮は、災害の原因を仏法の眼によって究明すべく、「[[立正安国[[立正安国論|論]]]]」執筆の準備のため、正嘉2年(1258年)2月、実相寺の経蔵において一切経を閲読したが、その折に日興は日蓮に接して感銘を受け、日蓮の門下となることを願い出たとされる(日精「家中抄」『富士宗学要集』<ref>{{Cite book|title=富士宗学要集|date=1978年3月16日|year=1978年|publisher=創価学会}}</ref>第5巻147頁)。日蓮の指示があったためか、日蓮の弟子となってからも日興は実相寺において仏教全般にわたる修学を持続している。日興は、その後も弘安期に至るまで四十九院の供僧(本尊に供奉する僧侶)の身分を持っていた。
 
日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精「家中抄」)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』14頁)。
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