「エリック・ホッファー」の版間の差分

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28歳の時、多量の[[シュウ酸]]を飲み[[自殺]]を試みるが未遂に終わる。それをきっかけにロサンゼルスを去り、[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]で季節労働者として農園を渡り歩いた。労働の合間に[[図書館]]へ通い、[[大学]]レベルの[[物理学]]と[[数学]]をマスターする。農園の生活を通して興味は[[植物学]]へと向き、農園をやめてまで植物学の勉強に没頭し、またも独学でマスターすることになる。
 
ある日、勤務先の[[レストラン]]で[[カリフォルニア大学バークレー校]]の柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会い、給仕の合間に彼が頭を悩ませていた[[ドイツ語]]で書かれた植物学の文献を翻訳した。彼はホッファーが植物学にもドイツ語にも精通していることを知り、研究員として勤務することを持ちかけた。しばらく研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていた[[レモン]]の[[白化現象]]の原因を突き止めた功績が認められ、正式な研究員のポストが与えられるが、それを断り気ままな放浪生活へと舞い戻る。
 
[[哲学者]]、著述家としての転機は[[1936年]]、ホッファーが34歳の時であった。[[アドルフ・ヒトラー]]の台頭、そしてその冬、[[砂金]]掘りの仕事でひと冬を雪山で過ごすことになり、その暇つぶしとして道中の古本屋で購入した[[モンテーニュ]]の『[[エセー]]』との出会いによって思索、とりわけ「書く」という行為を意識し始めたという。エセーはその冬で三度読み返し、最後には大部分を暗記してしまったという。