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| image5=Discourses - Epictetus (illustration 1) (9021700938).jpg | alt5=Epictetus
| image6=Dhikr Rifa-iyya.jpg | alt6=Sufis
| footer =瞑想の様々な描写。ヒンズー教の左上から[[ヴィヴェーカーナンダ]]([[ヒンドゥー教]]の思想家)
仏教宣化(中国出身スアン・フア禅僧)八段錦([[道教]]による気功、キリスト教導引)、[[アッシジのフランチェスコ]]、[[(キリストア派]]聖人)、[[エピクテトス]]、イ([[ラム教のトア派]])、ズィクルを行う[[スーフィズム|スーフィー]]([[イスラーム]])。
}}
'''瞑想'''、'''冥想'''(めいそう、{{lang-en-short|meditation}}、{{lang-en-short|contemplation}})とは、[[心]]を静めて[[神]]に祈ったり、何かに心を集中させること、心を静めて[[無心]]になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者([[神]])をありありと体感したり、究極の[[般若|智慧]]を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている{{sfn|安藤|2003|pp=22-23}}。
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瞑想の具体的効用として、[[感情]]の制御、[[集中力]]の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、[[智慧]]の発現、さらには[[悟り]]・[[解脱]]の完成まで広く知られる。瞑想による特異な体験として、「変化しやすい強烈な感情、深いリラクセーションと高度の覚醒、知覚の明晰さの高まり、心理的プロセスや心理的移動説への感受性の向上、身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)、精神的コントロールの困難さに対する自覚、特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることのむずかしさの自覚、時間の感覚の変化、変性意識、他者との一体化の体験、防御心の減少、体験への開放性」などがある{{sfn|安藤|2003|p=56}}。
 
宗教学者の[[鎌田東二]]は、狩猟・漁猟を行っていた人々が、その技術を向上させるために修練し、それが武術や武道、スポーツとなり、また宗教的な[[行]]や瞑想になっていったと考える{{sfn|鎌田|2008}}。生きるためには食べる必要があり、人は生きるために命を殺害し、命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であった{{sfn|鎌田|2008}}。狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった{{sfn|鎌田|2008}}。鎌田東二は、このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、[[止観]]や禅を生み、山を歩き走ることが、歩行や走行は山岳跋渉や[[修験道]]を生んだと考える{{sfn|鎌田|2008}}。
 
あるがままを観察し、受け入れるという東洋の思想は、1960年代にアメリカの[[ヒッピー]]たちが注目し、彼らは精神的な成長を求め、ヒンドゥー教の超越瞑想、禅仏教を学び、アメリカや東南アジアで修業をした{{sfn|有光|2019}}。20世紀のアメリカでは、裕福な階級は[[精神療法]](サイコ・セラピー)を精神病の治療だけでなく精神の健康にも活用していたが、1960年代後半に起こった[[ヒューマンポテンシャル運動]]では、[[ゲシュタルト心理学]]などの[[人間性心理学]]と精神療法が結びついて一般に広まり、自己実現や自己成長の手段として重視された{{sfn|安藤|2003|pp=158-161}}。この運動の代表的な人物である禅の研究者{{仮リンク|アラン・ワッツ|en|Alan Watts}}は、東洋の宗教における修行と西洋の精神療法とを同様のものと考えて、瞑想が精神療法の文脈の中に取り入れられた{{sfn|安藤|2003|pp=158-161}}。このことが、今日の一般での瞑想の実践や研究に大きな影響を与えていると考えられており、西洋で瞑想は実利的な健康法、セラピーとして広く活用されている{{sfn|安藤|2003|pp=158-161}}1970年代には、科学者を志す若者たちが東南アジアやインドで瞑想の修行をするようになり、アメリカに戻って瞑想研究や普及活動をした{{sfn|有光|2019}}。80年代になると、徐々に科学的研究が発表され、瞑想する環境も整い、瞑想は広まっていった{{sfn|有光|2019}}。
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アメリカでは、医学者の[[ジョン・カバット・ジン]]が、仏教で悟りに至るための実践の一つで、今この瞬間に注意深くあり、判断せずにそれを受け入れるという[[マインドフルネス]]瞑想を[[医療化]]し、[[マインドフルネスストレス低減法]]を考案して慢性疼痛の患者の治療に活用し、その適応範囲はうつ病、不安症、摂食障害、不眠症などの精神疾患へと広がっていった{{sfn|有光|2019}}。瞑想を科学的研究の対象とするために、宗教的側面を整理してそぎ落とし、定義し直したことで、瞑想研究は飛躍的に進み{{sfn|安藤|2003|pp=17-22}}、2000年以降には、脳科学者の瞑想研究も増加し、瞑想熟練者でなくともマインドフルネス瞑想のトレーニングで脳の活動が変化するという科学的知見が示され大きな衝撃を与え、2000年代にはネットを通じてマインドフルネスという言葉が広まっていった{{sfn|有光|2019}}。教育や福祉、職場のメンタルヘルスの向上のためにも用いられるようになり、アメリカでは2010年以降、ビジネスパーソン向けのマインドフルネスのワークショップが企業内外で開催され、[[Google]] や [[Facebook]] で導入されたことでも注目を集めた{{sfn|有光|2019}}。感情のコントロールや職場の満足感の向上への効果が示され、2014年には『TIME』誌で特集も組まれた{{sfn|有光|2019}}。世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離して調整されており、都合よく切り詰められたマインドフルネスの「去勢」がもたらす問題を指摘する声もある{{sfn|永沢|2017|p=62}}。
 
アメリカの自己心理学者{{仮リンク|クリスティン・ネフ|en|Kristin Neff}}は、社会的な競争に勝つことで[[自尊感情]]を高めることが幸福につながるという考えに疑問を呈し、仏教の思想に基づいて{{仮リンク|セルフ・コンパッション|en| Self-compassion}}(自分への慈悲、思いやり、優しさ){{efn|コンパッションは、一般的な意味での「思いやり」「優しさ」ではない。衆生の幸せを願い([[慈 (仏教)|慈]])、衆生の苦しみがなくなることを願い([[悲 (仏教)|悲]])、衆生の幸せを喜び([[喜 (仏教)|喜]])、偏りのない平静な心([[捨 (仏教)|捨]])というあり様([[四無量心]])のこと{{sfn|有光|2019}}。}}の研究を行い、自尊感情が高くなくてもセルフ・コンパッションが高い人は、自分を受け入れ、幸福を感じ、不安や抑うつが低いという研究結果を示した{{sfn|有光|2019}}。ネフは、セルフ・コンパッションを、マインドフルネスを包含し相補する概念として提示しており、ジョン・カバット・ジンや[[マインドフルネス認知療法]]の創始者マーク・ウィリアムズも「マインドフルネスはコンパッション(慈悲)を含んでいる」と述べている{{sfn|林|2017|pp=194-195}}。しかし、必ずマインドフルネスがコンパッション(慈悲)を含むわけではなく、アメリカでは、軍事訓練にマインドフルネスを用いて動じない兵士を作る試みがあり、瞑想が軍事利用されている{{sfn|林|2017|pp=194-195}}{{sfn|永沢|2017|p=62}}。
 
== 「瞑想」「冥想」という表現 ==
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その後、西[[ヨーロッパ]]においてはもっぱらキリスト教カトリックが発展した。私的な祈りはその形態から、定型の祈りの言葉を声に出して唱える[[口祷]]と、心の中で念じる祈り[[念祷]](oratio mentis)に分けられ、念祷はさらに思弁的な祈りである[[黙想]](meditación、meditation)と、言葉を介さずに真理を直接に「観る」非思弁的な神秘体験[[観想]]({{Lang-es|contemplación}}、{{Lang-en|[[:en:Christian contemplation|contemplation]]}})に分けられた{{sfn|辻部|2009}}。キリスト教カトリックの祈りにおいて、観想が最も高度な段階である{{sfn|辻部|2009}}。日本では meditatio を「黙想」と訳し、[[プロテスタント]]教会では念祷(oratio mentis)を「瞑想」と訳すようである<ref name="清水"/>。
 
伝統的な仏教では、瞑想という語はほとんど用いられてない<ref name="法楽寺"/>。仏教用語のパーリ語の bhāvanā([[バーヴァナー]])は[[修習]]、修行と訳されており、これが瞑想に当たる{{sfn|永沢|2017|p=62}}<ref name="法楽寺"/>。修行とは、「身体の訓練を通じて『悟り』を目指すこと」を意味する{{sfn|Bittmann|2008}}。yoga(ヨーガ、瑜伽)、pratipatti(プラティパッティ、行)、特に[[密教]]にて用いられるsādhana([[サーダナ]]、成就法)も瞑想に当たる<ref name="法楽寺"/>。また、瞑想で達する心理的状態を表すdhyāna([[ディーナ]]、禅那)、samādhi([[サマーディ]]、三昧)も、俗に瞑想を指す言葉とされることもある<ref name="法楽寺"/>。
 
近代になると、ヨーロッパで仏教が研究されるようになり、[[禅]]や[[チベット仏教]]の実修、ヨーガなどが、meditation、contemplation と理解され、翻訳された<ref name="法楽寺"/>。それらを紹介した欧米の書物がさらに邦訳される際(再輸入される際)、元の仏教用語に相当する日本語ではなく、「瞑想」と訳されたものも少なくない。「瞑想」の英訳には、meditation と contemplation のどちらかが当てられている{{sfn|永沢|2017|p=62}}。
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森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。[[ヒンドゥー教]]([[バラモン教]])、[[仏教]]、[[ジャイナ教]]などインドの諸宗教で実践されている。
 
[[ヒンドゥー教]]における瞑想法は、[[アートマン|真我]]や神との合一体験を目的とした瞑想が主流である。インドの宗教哲学の伝統において、瞑想の対象と一体となり、意識をただ一点に集中させ続けることによって、究極の智慧そのものとなることを目指す伝統的な瞑想として「[[ヨーガ]]」がある。この状態は[[三昧]](サマディ)と呼ばれる。仏教やヒンドゥー教における瞑想法の究極の到達点は一般的には[[輪廻]]からの解脱であるが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗教・宗派を区別する根拠の一つとなった。
 
[[仏教]]の始祖である[[釈迦]]は、上述のインドのヨーガ的な瞑想の技法を学んだあるいはヨーガ)ただし、その苦行によっては覚りを得ることはできず苦行を捨てて自力で覚りを開いたとされる)<ref>山下博司 『ヨーガの思想』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2009年、第4章「ブッダとヨーガ」。</ref>。仏教はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある(詳細は[[瑜伽]]、[[法相宗]]、[[真言宗]]、[[天台宗]]、[[禅]]、[[上座部仏教]]などの項を参照)身体性哲学を研究する山口裕貴は、精神が主体・身体は客体と扱う西洋とは逆に、仏教修行では身体が主であり、瞑想とは、身体にある種の拘束性を加え「型」となし、身体の型に精神を添わせていく作業であるとしている{{sfn|山口|2012}}。これにより、日常生活で育った欲望は薄まっていき、心身が合一することで「心身一如」、[[無]]と呼ばれる境地に至るという{{sfn|山口|2012}}。禅では、「調身、調息、調心(姿勢が整えば呼吸が整い、呼吸が整えば心が整う)」とされる{{sfn|林|2017|p=188}}。
 
[[仏教]]における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていると考え、意識の深層段階へと到達することを目的とした修行確立し、実施する宗派もある。例えば、[[大乗仏教]]における[[仏教哲学]]・[[仏教心理学]]では意識は[[八識]]に分類され、その中には[[末那識]]や[[阿頼耶識]]と呼ばれる層があり、そこに到達するための修行が行われる。末那識、阿頼耶識は、近代になって西洋心理学で[[深層心理]]と呼ばれるようになったものに近いと言う見解もある。[[上座部仏教]]においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化(一般的認識である[[欲界]]を超えた後に現れる第一[[禅定]]から第九禅定)しており、第一禅定以上の集中力において[[仏陀]]によって説かれた[[ヴィパッサナー瞑想]]の修行を行うことで解脱が可能と言われている。
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[[キリスト教]][[カトリック]]の伝統においては、特に[[修道院]]の[[修道士]]らの日課には祈りとして瞑想を行う時間が設けられていることが多い。祈りは[[黙想]](瞑想)、[[観想]]に分けられる。黙想は、想像力によって聖書の場面を思い描いたり、神学上の重要な教えについて知性によって思弁的に思索をめぐらす{{sfn|鶴岡|2011}}。これによって宗教的な感動を覚え、信仰がより深まる{{sfn|鶴岡|2011}}。一方観想は非思弁的なものであり、黙想の次の段階に当たる{{sfn|鶴岡|2011}}。17世紀には観想が、修得的観想(contemplatio acquisita)と注賦的観想(contemplación infusa)に区別されるようになった{{sfn|辻部|2009}}。世俗を離れた僧院での修行がベースにあるカトリック観想修道会の祈りは、仏教で発展した坐禅行と比較されうる<ref name="清水"/>。黙想と観想をはっきり区別した[[十字架のヨハネ]]によると、観想では想像力や知性を用いた観念は一切使うことはなく、「暗く、無分別で、あらゆる個別性を欠いた概念」による「無相の祈り」を通して、神との合一の認識を得る{{sfn|鶴岡|2011}}<ref name="清水">{{Cite web |url=http://www.geocities.jp/simizu_daisuke/inoritozazen1108.html |title=キリスト者の祈りと坐禅 |author=清水大介 |publisher= Dai's Home Page|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181106171215/http://www.geocities.jp/simizu_daisuke/inoritozazen1108.html |archivedate=2018-11-06|accessdate=2019-7-17}}</ref>。修得的観想には人間の能動的な態度があるが、神から超自然的に注がれた体験である注賦的観想には人間の自発性はなく、まったく受動的に与えられる注賦的観想によって、神との合一が成就される{{sfn|辻部|2009}}{{sfn|鶴岡|2011}}。
 
[[キリスト教神秘主義]]は、ギリシの[[新プラトン主義]]から一者との合一の思想を受け継いでおり、自己の内面において一者である神との合一を目指し、その体験に至るために、瞑想も含めた「祈り」や、断食などの苦行を含む「自己否定」が実践された{{sfn|阿部|2015}}{{sfn|狭間|2014}}。ただし、キリスト教神秘主義における神との合一は、[[梵我一如]]に見られるような普遍的・根本的存在と人間や万物の同一を説く東洋の[[一元論]]とは異なり、あくまで神と人間は異なるものであるとし、合一の体験は、永遠・絶対の存在である神を有限な存在である人間が享受することであり、[[二元論]]的宇宙観に基づく{{sfn|村松|2008}}。
 
[[イエズス会]]の創立者であるロヨラの[[イグナチオ・デ・ロヨラ|聖イグナチオ]]は、自らの神秘体験から霊的なトレーニングとして黙想『[[霊操]]』を作り出し、教本にまとめられている{{sfn|狭間|2014}}<ref name="カトリック六甲教会"/><ref name="上智大学"/>。イエズス会で司祭に叙階された者は、その前後に霊操を行う<ref name="カトリック六甲教会">[http://www.rokko-catholic.jp/articles/200208/daily_spiritual_exercise.html 「日々の霊操(れいそう)」の紹介] カトリック六甲教会</ref><ref name="上智大学">[https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit4.html 『霊操』はイエズス会の精神基盤] 上智大学</ref>。霊操は「人間の知性、情緒、意志、さらに身体まで含む全人格的な人間教育そのもの」であると言われる{{sfn|狭間|2014}}。霊操は、教えを授ける者と実践する者の間に、[[聖霊]]に導かれながらも個人的なつながり、関係が結ばれるように設計されている点に、従来の修道制にはない独創性がある{{sfn|狭間|2014}}。
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信仰による[[義認]]と[[聖書主義]]を特徴とし、業(わざ)よりも信仰を重視する[[プロテスタント]]では、仏教の修行(瞑想)に当たるものはほとんど見られない<ref name="清水"/>。
 
[[東方教会]]においては、「[[イイススの祈り]](絶えざる祈り)」を唱え続けつつ深い瞑想の境地へと入ってゆく方法があり、これは「{{仮リンク|ヘシム|en|Hesychasm}}(静寂主義)」と呼ばれている{{Sfn|松|1995|pp=104-116}}。
 
{{see also|祈り|イイススの祈り}}
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===近代オカルティズム===
[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]近代の[[神智学]]を始め、その思想は選ばれたものに受け継がれた秘められた教えを万人に開陳したものであるとされた。神智学はインドの宗教・哲学を取り入れており、魂が実在し永続すると考え、[[転生]]による魂の進化、霊的進化が唱えられた{{sfn|松尾|2006|pp=163-180}}。人類の上の段階に至るための[[イニシエーション]]達成のために、高位の存在であるハイアラーキーから、[[レムリア]]・[[アトランティス]]の時代に人類に与えられたものが、[[ヨーガ]]であるとされる{{sfn|松尾|2006|pp=163-180}}。肉体・エーテル体を完成させるため、また[[アストラル体]]を浄化しコントロールするために様々なヨーガ{{efn|第1段階のイニシエーションのために、[[レムリア]]文明の時代に、エーテル体と肉体をつなぎ完成させるために肉体のヨーガとして[[ハタ・ヨーガ]]、[[チャクラ]]をコントロールすることで肉体をコントロールするためのエネルギーのヨーガとしてラヤ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガが与えられ、第2段階のイニシエーションのために、[[アトランティス]]文明の時代にはアストラル体を浄化するための献身による浄化の[[バクティ]]・ヨーガ、意識の集中・瞑想の[[ラージャ・ヨーガ]]が与えられ、これにより[[アストラル体]]のコントロールが可能になるとされる{{sfn|松尾|2006|pp=163-180}}。第3段階のイニシエーションには、ラージャ・ヨーガとアグニ・ヨーガが必要であるとされる{{sfn|松尾|2006|pp=163-180}}。}}が行われた{{sfn|松尾|2006|pp=163-180}}。なお神智学の用語は、インドの宗教・哲学における意味とは異なっているため注意を要する。
 
神智学に学んだ[[ルドルフ・シュタイナー]]は、[[神智学協会]]から離脱して[[人智学]]を作ったが、転生を通した霊的進化の思想や、レムリア・アトランティスといったオカルト的歴史観は引き継いでいる。シュタイナーは生まれつき霊界を見る目、霊的なものを見る超越的感覚を持っていたと主張しており、全ての人は、彼が教える人智学の修行法、特にその瞑想と集中の行を毎日15分行い続ければ、自然と見霊能力、超越的感覚が目覚めると考えた{{sfn|吉永・松田|1996|pp=84-89}}。選ばれたもののみが修練し、理解・会得することができるという従来の神秘主義とは一線を画し、開いた形で指導された{{sfn|吉永・松田|1996|pp=84-89}}。なお、シュタイナーの死後、彼の信奉者の中に彼と同等の権威をもって見霊能力を示し教えを発展させる者は現れなかったが、残されたシュタイナーの教えを守る形で活動は続き、多方面に影響を与えた{{sfn|Tingay|2009|pp=451-453}}。
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2000年以降には、脳科学者の瞑想研究も多くみられるようになった{{sfn|有光|2019}}。代表的なものとして、[[fMRI]](磁気共鳴機能画像法)を使用し、瞑想時や平静時の脳の内側前頭前野、後帯状皮質、楔前部、下頭頂小葉などからなる{{仮リンク|デフォルトモードネットワーク|en|Default mode network}}(Default mode network:DMN)の活動を調べる研究がある{{sfn|有光|2019}}。デフォルトモードネットワークが活動している状態は、雑念が浮かび疲れやすいと考えられ、デフォルトモードネットワークの活動の低下は、より平静であることを表す。瞑想時はデフォルトモードネットワークの活動が低下することが分かっている。ポジティブまたはネガティブな単語を見る時に、マインドフルであるよう教えを示すだけで、デフォルトモードネットワークの一部の活動が減退し、自己関連の情報処理が行われにくくなることが分かっている{{sfn|有光|2019}}。また、マインドフルネスストレス低減法を行うと、身体部位や内臓で生じた反応への気づきを反映する島が活性化しやすくなり、内側前頭前野と機能的結合が薄れ、ネガティブな情報を見ても感情に囚われにくく、マインドフルな気づきの状態でいやすくなる{{sfn|有光|2019}}。これは瞑想を何年も行っている成人でも同様であることが確認されている{{sfn|有光|2019}}。
 
2001年に[[マサチューセッツ総合病院]]のセーラ・ラザー(Sara W.Lazar)は、瞑想と経験による神経可塑性に関する実験を行い、8週間かけてマインドフルネス瞑想を行う群と行わない群の脳をMRIでスキャンし比較した{{sfn|Lazar|2011|pp=36-43}}。瞑想の参加者は学習や記憶に関連する[[海馬]]の灰白質密度が高まり、不安やストレスに関連する[[扁桃体]]の灰白質密度が低下しており、瞑想が脳の自己認識、思いやり、内省といった分野に比較的急速に生理的変化を生じさせる可能性が示された{{sfn|ゾッリ、ヒーリー|2013|pp=174-181}}。[[ペンシルバニア大学]]の{{仮リンク|アンドリュー・ニューバーグ|en|Andrew B. Newberg}}は、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化を研究し、深い祈りを込めた瞑想は上[[頭頂葉]]後部の活動を低下させ、血流を減少させるという見解を示した{{sfn|パーニア|2006|p=不明}}{{efn|ニューバーグは、瞑想時における様々な体験が「客観的な現実であるか」と問われた時に、それは「神経学的な現実」であると返している{{sfn|パーニア|2006|p=不明}}。}}。
 
=== 治癒的な作用 ===