「アルバート・ケテルビー」の版間の差分

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[[バーミンガム]]の出身版画師であった父親ジョージ・ケテルビー(George Ketelbey、アクサン・グラーヴは付かない)と母親セイラ・アストン(Sarah Aston)との間に出生。11歳のときには、習作の[[ピアノソナタ]]をウォーチェスター音楽祭で演奏、作曲家・[[エドワード・エルガー|エルガー]]の賞賛にあった。
 
13歳で、[[ロンドン]]の{{仮リンク|トリニティ音楽カレッジ|en|Trinity Laban Conservatoire of Music and Dance}}(Trinity College of Music)のヴィクトリア女王奨学金を受けて、[[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]に師事、才能を認められ、16歳で[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]のセント・ジョン教会のオルガン奏者に迎えられる。この頃、さまざまな楽器に習熟し、プロのオーケストラでもやっていける程の技量を身につける。
 
22歳で教会との契約期間が切れると、一転して[[ヴォードヴィル]]劇場の音楽監督となり、軽音楽の編曲・指揮に才能を発揮し、ミュージカルは大衆受けし、「ラウル・クリフォード(Raul Clifford)」や「アントン・ヴォドリンスキ(Anton Vodorinski)」などのペンネームを使って初期の多作品を発表した。