「シャルル・ガルニエ」の版間の差分

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1825年、パリの[[下町]]である現在の[[5区 (パリ)|パリ5区]][[ムフタール通り]](ムフタール街)に生まれる。父は[[鍛冶]]職人で、母は[[レース (手芸)|レース]]編屋。親は教育熱心で、学費捻出のために働いたという。[[1842年]]、[[エコール・デ・ボザール]]に併設する[[新古典主義建築]]の大家[[ルイ=イボリット・ルバ]]のクラスの下に学び師事する。卒業試験に際しては、「工業製品の展示ギャラリーと[[フランス国立工芸院|コンセルヴァトワール・デザール・エ・メティエ]] (''Un conservatoire des arts et métiers, avec galerie d'expositions pour les produits de l'industrie'')」を提出している。
 
[[1848年]]、23歳の時にボザールにおけるテーマで[[ローマ大賞]]を受賞する<ref>{{Cite book|和書 |author = [[ジョン・バクスター]] |year = 2013 |title = 二度目のパリ 歴史歩き |publisher = [[ディスカヴァー・トゥエンティワン]] |page = 74 |isbn = 978-4-7993-1314-5}}</ref>。翌[[1849年]]、{{仮リンク|[[在ローマ・フランスアカデミー|fr|Académie de France à Rome}}]]の奨学金給付生となり留学した。留学中は[[ローマ]]のほか[[シチリア]]、さらには[[ギリシャ王国|ギリシャ]]も回り、古代建築への情熱を駆り立て、それらの研究成果を[[1853年]]、[[サロン・ド・パリ]]に出品した。その後、[[エドモン・アブー]]とギリシャを、また、[[テオフィル・ゴーティエ]]と[[コンスタンチノープル]]をそれぞれ訪れた。[[アイギナ島]]の[[アパイアー|アファイア神殿]]の影響を受けて、多色画法を学ぶようになった。
 
帰国後はバリューのもとで修行し、1860年に[[ガルニエ宮|オペラ座]]の[[建築設計競技]]で当選し、ガルニエ設計による壮麗なオペラの殿堂が実現する(1862年 - 1875年)。[[1874年]]、[[フランス学士院]]会員と同時に、[[芸術アカデミー|アカデミー・デ・ボザール]]建築部門に名を連ねるが、アトリエは持たなかった。