「西郷頼母」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
会津藩家老・[[西郷近思]]の子として生まれる。会津藩の家老は世襲制で、会津の名門九家の門閥の者しか家老となることが許されず、身分意識が強く、「ならぬものはならぬのです」という教えによって、優秀であれば身分が低くても出世できるということが許されなかった。
 
=== 会津家老時代 ===
[[万延]]元年([[1860年]])、家督と家老職(家禄1,700石)を継いで藩主・[[松平容保]]に仕えた。[[文久]]2年([[1862年]])、[[江戸幕府|幕府]]から[[京都守護職]]就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために、容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、[[禁門の変]]が起きる直前に上京して[[藩士]]たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられ、家老職まで解任された上に、蟄居させられる。この解任理由は、無断上京を咎められたからとされるが定かではない。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。
 
明治元年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの家老らに対する[[切腹]]要求に態度を一変。頼母は白河口総督として[[白河小峰城|白河城]]を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、[[伊地知正治]]率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥([[白河口の戦い]])。その後二ヶ月以上にわたり白河口を死守したが、7月2日に棚倉城陥落の責任により総督を解任される。会津防衛に方針転換してからは進入路に当たる峠(背炙山)の1つを守っていたが、他方面の母成峠を[[板垣退助]]率いる土佐[[迅衝隊]]に突破されたために、新政府軍が城下を取り囲んだ。
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== 系譜 ==
[[西郷氏#三河西郷氏|西郷家]]は、[[室町時代]]に[[仁木氏]]の[[守護代]]を務めた[[三河国]]の名家であったが、やがて勢力を拡大させる[[松平氏|松平家]]に臣従した。その後、徳川政権下で[[御三家]]や有力譜代の家臣として存続し続けた。そして[[会津藩]]における西郷家は その傍流の1つとして目され、初代の[[西郷近房]]以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、頼母で9代目となっていた。家禄1,700石。家紋は[[鷹の羽]]、また[[保科氏|保科家]]の[[九曜|並び九曜紋]]を許されていた。
* 曾祖父:西郷近寧
** 祖父:[[西郷近光]]
*** 父:[[西郷近思]](1805-1860)
*** 母:律子(1811-1868)
****'''本人:保科近悳(西郷頼母)'''
**** 妻:千重子(1835-1868)
***** 長男:[[西郷有鄰|吉十郎有鄰]](1858-1879)
***** 次男:西郷五郎(夭逝)
***** 養子:[[西郷四郎|四郎]](1866-1922)
******養子の養子:西郷孝之<ref>神保巌之助四男</ref>
***** 長女:細布子(1853-1868)
*****養子:保科近一<ref>西郷栄之助長男</ref>
***** 次女:瀑布子(1856-1868)
*****女:田鶴細布(1861(1853-1868)
*****女:常盤瀑布(1865(1856-1868)
*****女:田鶴(1867(1861-1868)
*****四女眉寿常盤(1843(1865-1868)
*****五女由布(1846(1867-1868)
****弟:山田直節
*****甥:山田重郎
****弟:立川一兎
*****甥:立川直臣
******甥の子:立川玄一郎
****妹:八代([[井深宅右衛門]]妻)
*****甥:[[井深梶之助]]
*****甥:井深彦三郎
******甥の子:井深重彦(夭逝)
******甥の子:[[井深八重]]
***** 次女瀑布眉寿(1856(1843-1868)
***** 長女布子(1853(1846-1868)
 
母、妹2人、妻、5人の娘は慶応4年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]](1868年[[10月8日]])、頼母の登城後に親戚12人と共に自邸<ref group="注釈">西郷頼母邸跡の石碑が若松城正面の追手門町にある。</ref>で自害した<ref group="注釈">詳細は[[中島信行#エピソード]]参照。</ref>。
この家族の受難は戊辰戦争の悲話として紹介され、そのため頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるという評価と、[[家族]]は潔く自害した好意的に自身は逃亡し生き長らえたことから、卑怯者、臆病者とされる評価で二分されている。
 
長男・吉十郎有鄰は当時11歳で父・頼母に連れられ、籠城中の若松城から脱走し、仙台から函館へ向かい、函館で父が五稜郭に入城の時に[[坂本龍馬]]の従兄弟で函館のギリシャ正教神父・[[沢辺琢磨]]に託された。(沢辺琢磨の実弟である[[桑津重時|桑津一兵衛重時]]は、新政府軍・土佐[[迅衝隊]]の第十四番隊長として、会津戦争に従軍している)病のため東大医学部病院で死去(戦後は[[西郷隆盛]]の援助でアメリカ留学したとの説、[[西南戦争]]に鹿児島で戦傷説もある)。墓は東京都港区麻布長谷寺である。
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* [[大東流合気柔術]]の伝承によると、頼母は藩士時代に[[武田惣右衛門]]から御式内等の武芸と陰陽道を学び、明治31年([[1898年]])に霊山神社を訪ねた[[武田惣角]](武田惣右衛門の孫)に御式内を伝授したといが、墓石によれば、武田惣右衛門は頼母が生まれる32年前に死去しており、また会津の農村に陰陽師はなく、頼母に合気柔術を教えた可能性は低い。
* 保科近悳の立った写真は身長140センチ、武術の達人ではないと判明した。武田惣角に相談された保科は、官尊民卑の時代に柔軟に生きるため、武田姓と甲斐武田家を結び付ける大東流史実を創作した。護身術の[[御式内]]は隣りの藩士御供番(藩主護衛役)佐藤金右衛門、隣村の易者に真言密教、修験道、気合術(気合・合気)を教えられ、柔術に気の力を導入して合気柔術を創始した。この内容で会津坂下町郷土学習副読本の人物紹介武田惣角は修正されている。明治戸籍で武田姓になり、身分は農、幕末は竹田姓で、先祖が甲斐武田から来た史実は否定的な証拠がある。
* 保科近悳の晩年の証言、『保科藩老戊申戦略談一片聞書』(藩士渋谷源蔵 よると、白河口攻防の作戦は保科の意見は反対され、降伏開城も反対されたとある。<!--これまでとは正反対で、臆病者と揶揄された頼母の汚名返上になる。-->
*西郷頼母が語った「中道を行く者の難しさは、右から見れば左に見え、左からみれば右に見られる 」は 名言といわれ、王道の評価がある。