「佐治幸平」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[陸奥国]]大沼郡[[会津高田町|高田村]](現[[福島県]][[大沼郡]][[会津美里町]])出身。佐治一族は高田の旧家で、[[蒲生氏]]の分家、[[儀俄氏]]([[甲賀五十三家]])の子孫で、[[蒲生秀行]]の家臣として仕えていたが、蒲生家のお家断絶により仕官に失敗し、後に若松より高田に移り住んだと伝わる。醸造業を営むほか、会津銀行高田派出所や郵便局が設置され、大地主として高田地域を代表する家の一つとして知られた。父は西佐治家の五代目幸左衛門金麗<ref>『会津高田南佐治家の系譜』97頁</ref>。6歳から[[会津藩]][[藩士]][[栃木南涯]]の養育を受け、その養子となるが離籍する。本佐治家八代目佐治次左衛門俊徳の娘お長と結婚し養子に入るが、のちに分家している。養家の本佐治家も旧家で代々酒造業を営み、酒の名は「和泉川」で屋号は和泉屋と称した。幸平の兄にあたる九代目次左衛門俊明の孫婿に[[星冬四郎]]や[[帝人]]副社長[[五十嵐集]]などがいる<ref>『会津高田南佐治家の系譜』94頁</ref>。息子は酉二郎である。幸平は若松中学(現[[福島県立会津高等学校|会津高等学校]]の前身)を卒業し、さらに[[福島師範学校]]に学び、小学校教員(旧永井野村立[[永井野小学校]]→旧高田村立[[高田小学校]])になる。
 
西佐治家の分家で幸平の従兄弟にあたる二代目佐治与松親守の影響を受け、在職中から自由民権運動に共鳴。望月與三郎<ref group=*>会津藩士・望月弁次郎の長男。民権運動により教員を罷免されたのち[[同志社大学]]を卒業。のち朝鮮で貿易に従事。</ref>、平山條三郎<ref group=*>のち県議、高田町助役。</ref>らと民権家として活動し、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]会津支部が設けられた明治15年([[1882年]])2月の前月に教職を退き政治運動に没入する。[[福島県知事一覧|福島県令]][[三島通庸]]は[[会津三方道路]]の建設を推進していたが、労働力の提供と資金の負担を迫られた住民の反発は強かった。幸平はこの三方道路建設反対運動の中心となって活動したが、[[宇田成一]]とともに逮捕される。その2日後、民権運動派(三方道路反対派)は釈放を求めて警察署に押しかけ、警察官と揉みあいになり[[福島事件|喜多方事件]](弾正ヶ原事件)が生起する。逮捕者は2000名を超え、その中には[[河野広中]]もいた。幸平は「大沼郡の巨魁扇動者」として起訴され軽懲役6年の判決が下るが、[[大審院]]に上告し無罪を勝ち取った。