「ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)」の版間の差分

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翌[[1347年]]に父が没した時、義兄の[[マイセン辺境伯]][[フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)|フリードリヒ2世]]を[[ローマ王]]に推戴しようとしたが、拒否された。[[1349年]]には[[ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク]]を対立王に擁立したが、ギュンターはすぐに退位した。同年、5人の弟と父の遺領を分割、ルートヴィヒ5世は上バイエルンを異母弟のルートヴィヒ6世、オットー5世と共同統治することになった(下バイエルンは同母弟のシュテファン2世、異母弟のヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世が治めた)。
 
[[1351年]]、ブランデンブルク辺境伯領をルートヴィヒ6世に譲渡、引き換えに上バイエルンはルートヴィヒ5世の単独統治となった(オットー5世も所領を譲った)。[[オーストリア君主一覧#オーストリア公|オーストリア公]][[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]]の尽力で[[1359年]]に破門を解除される<ref>ツェルナー、p. 175</ref>が、1361年に46歳で死去した。
 
マルガレーテとの間の子[[マインハルト3世 (チロル伯)|マインハルト]]に遺領が相続されたが、マインハルトも[[1363年]]に[[夭折]]すると、オーストリア公[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]](アルブレヒト2世の子)とシュテファン2世が領土を巡って争うことになる。
 
== 家族 ==
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他に2人の娘がいたが、夭折したようである。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 [[彩流社]]、2000年
 
{{先代次代|[[ブランデンブルク統治者の一覧|ブランデンブルク辺境伯]]|1323年 - 1351年|[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ1世]]|[[ルートヴィヒ6世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ3世]]}}