「広安門事件」の版間の差分

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==事件の影響==
この事件は、直前に起きた[[廊坊事件]]とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半{{efn|『戦史叢書』では28日午前2時とされる<ref>戦史叢書 p.225</ref>}}になって前日の通告{{efn|前日には廊坊事件への対応として第29軍各部隊の撤退を期限を付けて要求していた<ref>陸軍省新聞班 1937 pp.4-6</ref>。}}を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった[[宋哲元]]に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した<ref name=rikugun6/>。
 
日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された<ref>陸軍省新聞班 1937 pp.7-8</ref>。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。