「モーリス・ルブラン」の版間の差分

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晩年、「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」との言葉を残し、その自分の経歴も受け入れられるようになったとも見られ、『アルセーヌ・ルパンの数十億』(1939年)にいたるまで、ルパンシリーズを執筆する。
 
ルブランは1919年8月に文学への貢献(直接の理由は「国民的英雄・ルパン」の創造)によって[[レジオンドヌール勲章]]を授与され、1941年に[[ペルピニャン]]のサン=ジャン病院で亡くなった。死因の一つ(直接のものではない)は肺[[うっ血]]。妹[[ジョルジェット・ルブラン |ジョルジェット]]の死を息子のクロードから伝えられたが、その時にはもう意識が無くなっていた<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. p.312</ref>。亡くなる数週間前に、「ルパンが私の周りに出没して何かと邪魔をする」という趣旨の被害届を警察署に出し、そのため警察官が24時間体制で警備し、最期の日々の平穏を守った。
 
お金に細かい所があり、経済的に不自由が無くなっても、出版社に鉄道の割引券(permis de circulation)を度々無心して、南仏などへの旅行に利用していた<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. p.302 他。もっとも、妹のジョルジェットはその晩年に、肺炎などの病気で医療費や生活費(本来の仕事である舞台活動に必要とされなくなって来たので、『回想録』などの執筆活動をせざるを得なくなって来ていた)を親族に頼らざるを得なくなったり、更には、居候的な存在(同性愛の相手でもある)のマーガレット・アンダーソン等を引き連れて、モーリスや姉のジャンヌ夫妻に経済的に迷惑をかけていたから、やむを得ない面もあったであろう。</ref>。
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==参考文献==
*[[:fr:Daniel Compère|ダニエル・コンペール]]『大衆小説』宮川朗子訳 国文社 2014年
* {{仮リンク|ジャック・ドゥルワール|fr|Jacques Derouard}}『いやいやながらルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝』小林佐江子訳 [[国書刊行会]] 2019年(Derouard, Jacques. Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–.Editions Séguier, 2001.)
 
== 関連項目 ==